file 03:ソラリスの海

私が研究者になる最初のきっかけとなった本は─武者小路実篤の『人生論』ですね。中学の時、当時この作家が好きで、読んだんですけれども、その中に私たち人間は過去の遺産を引き継いで、それを未来に渡す役割がある。その時にただ渡すだけではなく、プラスアルファしなさいと書いてあったんです。これって、サイエンティストがやっていることですよね。

中学生だった私が真っ先に思ったのは、「過去の遺産」、つまり人類が長い歴史の中で蓄積してきた知識ってたいへんな量になるわけだから、まずこれを受け継がない限りプラスアルファを渡せるはずもない、ということ。これは重責に感じました。だから研究者になる前に、まず勉強しなければいけない、と思ったんですよね。十分に勉強して、ささやかだけど、遺産のこの部分は自分が担当して、そして未来の子孫へ渡そう、というふうにしたいなと。今この本をみんなにお勧めしたいというよりも、自分にとって研究へのきっかけになった本です。

もう一冊、まったく別の意味で影響を受けたのがスタニスワフ・レムのソラリス。要するに人類が宇宙へ出て、得体のしれない、生物であるかどうかすらわからないものが存在する惑星に着陸する。でも結局、巨大な何か神々しい「海」なるものの前まで行って、それが何であるか理解すらできないまま帰ってきちゃった……という話。

この「海」って、私から見ると「脳」なんですよ。私の研究は脳科学。で、やればやるほど意味わかんなくなっちゃう! しかもこれを自分の脳で理解するわけだから、余計わからない! 毎回行くたびに撃沈して帰ってくる、ソラリス旅行みたいなことやってるよな自分、みたいな。(笑)

2004年に新訳が出て読み直したんですね。おしまいに著者のレム自身による序文が訳出されていて、その中に「地球人と地球外生物とのあいだに相互理解が成り立つと考えるのは、似ているところがあると想定しているからだが、もし似たところがなかったらどうなるだろうか?」と書いてある。そうなんです、私たち人類の癖として「わかる」というのはこういうものだという紋切り型な思い込みがある限りは、脳は絶対にわからない。「わかる」というカテゴリー自体を変えない限りは。

スタニスワフ レム (著), Stanislaw Lem (原著), 沼野 充義 (翻訳)
国書刊行会   2004年9月   ISBN-13: 978-4336045010