file 01:記憶とデータベース

以前『漱石の白くない白百合』というエッセイ集を書いたくらいで、小説に関する議論も好きなのですが、文学に関する論文を調べるたびに感じる文化の違いがあります。それは誰かが何かを言うと、それと同じ事をまた誰かが言う、それが何度でも再生産されるということです。しかも誰が最初に思いついたことなのかを明記しない。そのため、それを言い出したのが誰で、その根拠は何か、ということが容易には辿れないのです。いわゆる文系の世界では、それが新しい発見かどうかは重要ではなくて、過去に言われてきたことをどれだけ広く、辞書のごとくに知っているか、という知識の量のほうが評価されている気配がありますね。自分が真っ先に新しいことを見つける、そしてそれが本当だということを証明してみせるというのが、サイエンスの営みですが、それとはだいぶ違うなという気がします。

ちょうどその本を書いていた頃、編集者の方と雑談中、「古今東西の文学作品がデータベース化されていれば、こういう言葉に関してこういう事例がある、ない、といったことについて証拠を容易に提示できるのに」と言ったところ、編集者の方が「それだとつまらない」と仰った。なぜかと訊いたら、コンピュータでデータベースが検索できるようだと、そちらが人々の地道な蓄積を簡単に超えてしまう。個人の博識さが反映されないからつまらないと言うのです。しかし、ある言葉の用例を確かめたいならば、データベースで網羅的に確かめるべきで、一人の人間が読み込めた範囲のなかでそうでしたといっても、それは証明にはなっていません。

とはいえ当時はそのようなデータベースがなかったので、そうした網羅的検索はできなかったし、それだからこそ文学研究は個人の知識に頼った流れが続いたのでしょう。でも今ならかなりの作品が電子化されていますよね。いろんなものがデータベース化されていくことで、簡単に反例が見つかるようにもなりますし、不確かな記憶に頼る必要もなくなる。たぶん文学分野での物の考え方も変わるのではないでしょうか。

[写真の植物について]
塚谷教授が触れているのは、小葉羊歯類の一種。東京大学本郷キャンパスの温室にて。