郷 通子理事(情報・システム研究機構)インタビュー

大学生活は多くの人にとって社会人になる前の最後の時期です。
将来像や人生の目標を持つ大学生がいる一方で、自分がやりたいことや将来像が見えずに「モヤモヤ」を抱えた学生もいます。そこで学生団体DANNAmethodに所属する学生たちが、この「モヤモヤ」に基づいた質問をresearchmapの研究者の方々にぶつけ、彼らの大学時代の過ごし方を手本に、「モヤモヤ」解決の糸口を探ります。

先生の大学時代はどんなものだったのですか?

当時、大学に進学する人は同学年で10%もいなかったと思います。私は父を早くに亡くし、母が一人で私と妹を育てたんですね。経済的に厳しいところもあり、小さい時から「まずは手に職をつけて、収入を得られるようにしなきゃ」という思いがありました。私が高校を卒業する頃、女性が高卒で就ける一番良い就職先は銀行員でした。しかし銀行は親が片方いないと採用してくれなかったんですよ。それを知って、ものすごく怒りに燃えましたよね。だってそれは運命じゃないですか。でもそういう時代だったんですよ。自分がその職からはじかれているということが悔しかったです。それで、大学に行ってもっと別の力を身につけて自分の経済力を身につけるしかないなと思いました。

しかし、母は初め私の大学進学には反対していました。私が通っていた高校は都立の進学校で毎年東大に何十人も行くような学校だったのですが、母は私の東大受験を許してくれませんでした。母は「男の人ばかりの環境で何をするの?」とか、「将来結婚する相手がいなくなる」とか、そんな理由を言っていたと思います。でもなんとか説得して、最終的には授業料の安い国立で女子大ならいいと言ってくれました。実は私、高校生の頃は医者か弁護士になりたかったんですよ。ただ、医学部はお金がかかるし、お茶大に法学部はありませんでした。ですから、まさか物理を学ぶとか、こういう研究者になるなんて当時は全然思っていなくて、早くからこんな研究がやりたいとか、特に理科が好きということはありませんでした。ただ数学は好きだったんですよ。論理的にスパッと割り切れるから、気持ちがいいですよね。もう一つ理系に進んだきっかけになったのは、私が高校2年のときにソ連が人工衛星を打ち上げたことでした。今までないことだったから、もうそれは大ショックでした。そういうことがあったので、理系がこれからも何かすごいことを世の中に起こすかもしれないという漠然とした憧れがあって、なんとなく理系に行く方が将来いいことがありそうかなという感覚で学部を選びました。

大学に入学後、私は演劇部に入ったんです。1年生の時は録音や擬音を担当していました。波の音とかを出したりする役割で、いろんな先生のところに教えてもらいに行ったり、2年生のときからは主役の妹の役を演じたりもしました。 あと都内の大学の物理学科の学生が集まる東京都物理科学生懇談会というサークルにも入っていて、一緒に勉強やディスカッションをしたりコンパをしたりして、結構仲良く過ごしてもいました。それから、1960年に日米安保改定があって学生運動が一番盛り上がったときに、私はちょうど3年生だったので、演劇の仲間や同じ大学の学生とよくデモに行きました。とにかくいろんなことをやって、すごく楽しかったですね。そんなことに時間を費やしていたので、勉強はずいぶんサボっていました。しかし、デモがピタッと止めになったとき「私は何をしていたのだろう」、「全然勉強していなかった」と気が付いたんです。これでは物理科を出たと言えないじゃないかという思いが募ってきて、大学院に行こうと考え始めました。