つながるコンテンツ
変化をひらくドアI

未来の描きかた。

作家
瀬名秀明 氏

4月からの「researchmapつながるコンテンツ」は、そのテーマを「変化をひらくドア」とし、新たなシリーズとしてスタートする。その第一回は、1995年『パラサイト・イヴ』のデビュー以来、研究者の世界を渉猟しながら長編小説を発表し続ける、作家・瀬名秀明氏だ。「瀬名秀明資料特集展 科学と文学の境界を超えて」開催中の仙台文学館に、瀬名氏を訪ねた。

「瀬名秀明資料特集展科学と文学の境界を超えて」は、仙台文学館にて2011年1月15日から開催され、3月21日まで開催の予定でしたが、3月11日に発生した東日本大震災の被害に遭われました。瀬名様、仙台文学館様はじめ被災者のみなさまに、改めてお見舞い申し上げますとともに、再建を心より祈念いたします。

16年目のサイエンス・コミュニケーション

なぜ科学やサイエンス・コミュニケーションが大事なのか?─よく若いサイエンス・コミュニケーター志望の方たちと議論すると、みんなサイエンスは人や社会を豊かにするし、自然の真理を追求するからすばらしい、そういう考え方を多くの人々に広めるのはいいことだと彼らは話すんですね。そこで僕は言うのだけれど、じゃあ理科離れは問題になるのに、なぜゲーム離れや本離れは問題にならないの? なぜ科学離れだけが深刻で、国がお金を出して何とか食い止めなければいけないの?

僕はやっぱり、自分が好きなものをみんなで共有してもらいたいという、最終的にはそういう気持ちしかないと考えています。釣りが好きだったら、みんなの釣り離れを何とかしたい。人類のためというよりも、科学が好きという、それでいいんじゃないか。

考えてみれば文学だって、「文学が好き」というのは、ちょっとヘンだと思いませんか?(笑) 文学にもいろいろあるのだから、ミステリーが好きだとか、ホラー小説が好きだというほうがまだわかる。サイエンス・コミュニケーションの場合も、科学とは何かよりも、たとえば「生命とは何か」と考えてはどうでしょうか? 生命とは何かなんていうのは、たぶん一生かかっても追求しきれないテーマですから、それくらいのものを目指してコミュニケーションすればいいんじゃないかな─そんなふうに思っていますね。

難しさには4つの階梯がある

では、難しいとかわからないって、どういうことなんだろうか?─「瀬名の小説は難しい」と16年間いわれ続けてきたので(笑)、僕はこれをずっと考えてきたのですが、結局、4つのフェーズがあるのではないかと考えています。1つ目は、悪文です。論理的に文の意味が通らない。文章と文章のつながりがわからない。これは文章力をアップすれば解決できますね。2つ目は専門用語がわからない。たとえば論文を読んでいて、中に出てくるDNAとかリガーゼといった言葉の意味がわからない。これは実は専門家同士でも、分野が違えばお互いにわからないんです。そして何も学問に限ったことじゃないですよね。僕は最近料理しているんですけど、いままでまともに自炊をしたことがなかったし、もう昔の家庭科の授業なんて忘れてしまったから、レシピを読んでたとえば「水からゆでる」という言い回しだって、相当わからない(笑)。世の中にはこういったことがたくさんあります。

3つ目は感情移入のスキルの問題です。これは僕らの心の発達と関係していて、人間は相手の考えを推測する能力が少しずつ発達していきます。お母さんが笑ったら赤ちゃんも笑ったという場合、赤ちゃんは笑顔の意味はよくわからないけれども「共鳴」している。一種の反射的な行動です。それからよく映画の宣伝で「全米が泣いた!」とか言いますけど、あれはスクリーンの中で主人公が泣くと、観客もその感情と同じ状態になって「共感(sympathy)」して泣いているんですね。小さな子でもこのシンパシーの能力はあるので、作り手の側からすれば観客を泣かせやすい。だから主人公の境遇や体験を、なるべく観客に近いものに設定してあげると、より共感を呼びやすくなります。しかし私たちは、さらに成長と共に情動を発達させて、やがて高度な「感情移入(empathy)」ができる人間へと育ってゆく。自分とは境遇などが違いすぎてとてもシンパサイズできないような相手の側へ、能動的に入り込んでその気持ちを忖度する、という心の働きですね。これは豊富な社会経験を積むことで発達してくる能力だと思います。たくさん小説を読んでいる人が必ずしもこのエンパシーの能力に長けているわけではないのがポイントで、どんなに読書好きでもシンパシーのレベルでしか小説の善し悪しを判断できない人もいるでしょう。エンパシーの妙味で描かれた小説は、そういう人にとっては非常に難しいものに思えるはず。このように情動による他者理解にも3つの段階があるのだと思います。科学者の考える筋道がわからない、おたくっぽくて難しいといわれますが、一般の人からかけ離れた世界に暮らす科学者の気持ちは、あえて能動的に忖度する「エンパシー」で理解しなければならない場合が多い。それが情動的な難しさを生んでいるのでしょう。

さて、最も難しい4つ目のフェーズ、それはコミュニティの問題だと思います。多くの人間は自分のコミュニティの慣習に則って人間の行動や感情を推測しており、その外側にある考え方を理解するのが難しい。自分のコミュニティで常識であることが、他のコミュニティでは非常識であることも多いわけですが、異文化コミュニケーションはやはり気疲れしやすい。だから積極的に異文化に関わるよりは、自分のコミュニティで仲間と楽しく暮らしていたほうがいい。異文化は難しいといって切り捨ててしまっても、生きるのに支障はないですから。みんながコスモポリタンになればいいのだけれども、やっぱりそれは難しいですよね。

千年後の科学者、小説の未来

一方、小説を書く時、僕はこの4つのフェーズをバランスよく採り入れたいと考えています。なぜなら、それが小説の醍醐味だと思うから。それがひいてはサイエンス・コミュニケーションの未来を拓くことになると思うから。いまは科学者の皆様にさえ、この想いは伝わっていないだろうと思うけれど、あとさらに16年模索を続ければ少しは伝わるかもしれないと思うから。

小説には、こういうふうにストーリーを転がせば面白くなる、というフォーミュラがあり、たとえば僕が好きな米国作家のひとり、マイクル・クライトン(代表作『アンドロメダ病原体』『ジュラシック・パーク』等)は、一次文献をたくさん読み、最新の知識を物語のフォーミュラの中に組み込んで、一世を風靡しました。じゃあ他の方法はないか?『パラサイト・イヴ』と比べると、僕の小説もだいぶ変わってきています。

そもそも、小説を読んで人はどうして感動するのか、すごく不思議なことだと思う。ところがこの謎は、文学研究でも脳科学発達心理学でも、まだよく解明できないわけなんです。そこで作家である僕は、物語を読んで感動するということの不思議を書きたい。『デカルトの密室』では、ミステリーの中にある謎は解けるけれども、なぜ感動するのかというのが謎になっているはずです。

最近は特に、研究者の人がこれまで考えつかなかったようなアイデアを書きたい、と思いますね。それから小説で未来を描こうという時に科学との関わりで難しいと思うのは、たとえば千年後の世界を描くとしたら、その未来で科学者が抱くビジョンです。ときどきSF小説や映画で未来の科学者が「ミーム」や「利己的な遺伝子」についてさも最近のトピックのように語っていたりしますけれども、そんなのとっくに片付いているはずでしょう!(笑)百年後、千年後の科学技術の成果を描くことはできるけれども、その時、科学者がリアルに何を想像しているのか?─とても知りたいですね。