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おとなりの研究者
岡山大学
大学院教育学研究科
専任講師

立命館大学
専門研究員

東京工業大学
環境・社会理工学院 技術経営専門職学位課程 / イノベーション科学系 イノベーション科学コース
助教

明治大学
文学部
専任准教授

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明日へとつなぐ鍵Ⅺ

スピノザがいいこと言ってますよ。

高崎経済大学
國分功一郎 准教授

哲学が専門で、スピノザドゥルーズ研究で知られる、高崎経済大学の國分功一郎准教授を訪ねた。2011年に刊行された『スピノザの方法』および『暇と退屈の倫理学』という2冊の話題の書を巡って、いま哲学にできること、その役立て方から、これからの哲学の融合研究的なあり方まで、幅広くお伺いした。

どうしてスピノザを読む気になったのか

僕は政治学科出身で、最初に勉強したのは政治思想政治哲学です。日本の「哲学科」は経験したことがなくて、計6年留学していたフランスで初めて哲学科に入りました。フランスに行って分かったのは、哲学という領域の懐の深さですね。パリで最初にお世話になったエティエンヌ・バリバール(Étienne Balibar, 1942 -)や、当時存命だったジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)の講義などは、古い領域から現代思想にかかわるジャーナリスティックで批評的な領域まで幅広くカバーしていた。だから、学問的な哲学と、世の中に発信していく哲学が別々であることを問題にする必要はなくて、ただ両方やればいいんだと思いましたね。スピノザに出会ったのはその頃ですが、哲学を自分の学問領域だと思えるようになったのは、さらに後、30歳ぐらいになってからでした。

哲学はもちろん古代からあるわけですけれども、勉強すればするほど、近代の問題が17世紀に始まっていることがわかってきた。現代の問題を考え直すには多分この辺りに遡るのがいいと考えるようになりました。17世紀というのは宗教戦争ヨーロッパがメチャクチャになった後の時代です。戦後の〝廃墟〟の時代。その廃墟からたとえば「コギトだけが確かだ」と喝破したデカルトや、自然状態を戦争状態として描いたホッブズ、そしてスピノザが現れる。この後、18世紀になると「復旧」も進んできて、社会のアーキテクチャーに相当するものが論じられるんですけど、17世紀というのはその下にあるインフラを整えていた時代なんですね。18世紀が〝建築〟の時代なら、17世紀は〝土木〟の時代です。僕には、廃墟で思考のインフラについて考えていた17世紀のこの土木的な哲学が非常に興味深いんです。

スピノザを読んでいると分かるのは、考えの内容だけでなく、どこか考え方そのものが我々と違うということです。どうやら近代はスピノザ的なものの考え方を斥けてきたようなのです。しかし、そのスピノザ的なものの考え方は或る真理に触れていた。だからスピノザは斥けられつつも、忘れられることなく、近代哲学に〝異物〟として残り続けた。僕が17世紀に遡って考える必要があるというのも、そういう意味です。我々の知る近代が斥けてきたオルタナティヴがそこにある。スピノザは死後300年の間、折に触れて哲学界に再来してきているのですが、恐らくその再来の根底には近代への懐疑があったのではないでしょうか。

みんな「直観」しているはずでしょう?

スピノザの哲学の中心にあるのは直観という考え方です。直観というもののポイントは、それを人に説明できないところにあります。その人が直観できているかどうかを公に証明する手立てはない。ここが、いわゆる近代の学問がとってきた手法と大きく異なるところです。僕は近代の学問の考え方の根幹部にはデカルト的な考え方があると思いますが、それは真理を公共的なものと捉えます。つまり、人に公に証明できなければ真理とは認めない。すると、公には証明できない直観なるものを哲学の根幹部に据えたスピノザは、そもそも人を説得しようなどとは考えないということになる。だから、何でも疑う懐疑論者の口を封じようと躍起になったデカルトとは対照的に、スピノザは、懐疑論者なんて放っておけ、と言っている(笑)。

直観というのは決して特別なことではありません。僕らは日々、直観しています。直観というのはその対象の全体像を把握してしまうことです。たとえば付き合いを続ける中で、或る瞬間に「あぁ、こいつはこういうヤツだ」とその人物が見えたようになるのも直観です。日常生活に直観はあふれている。ところが学問的には公共的真理しか認められない。だから僕らは直観というものをあまり信用しなくなっている。でも、スピノザによれば、うまく直観を積み重ねて自分なりのよい生き方を発見していくことが大切なんですね。

スピノザによれば、〝よく生きる〟とは自分を貫く法則に従って生きることを意味します。たとえば僕の心身にはそれなりの法則がある。言い換えると、心身を条件付けている必然性があるということですね。その必然性をうまく直観して生きていくことが重要なんですね。スピノザはそれを「コナトゥスに従って生きる」とも表現しています。コナトゥスとは個体が個体であろうとし続ける力・傾向のことを意味します。

僕はいま『リハビリの夜(医学書院)』などで知られる熊谷晋一郎さんという小児科医と一緒にお仕事をしています。熊谷さんは小児麻痺をお持ちで、そのこともあっていわゆる「健常者」の身体とは異なる身体の生き方を非常に興味深い仕方で考察されています。その熊谷さんが、スピノザ的な身体の考え方は大変参考になると仰っている。それぞれの身体にはそれぞれの法則性があり、それを発見することが大切だというスピノザの哲学は、規範的な型を押しつける近代的な身体観に根本的な異議を呈するものなんですね。

暇と退屈を考えないと絶対だめだ

『暇と退屈の倫理学』はもちろん暇と退屈を論じた本ですが、実は〝自由〟が大きなテーマです。我々は自由を欲する。ところが自由になると何をしてよいか分からなくて苦しい。ではどうしたらいいか? 僕はこの問題を現代社会の条件の中で考えてみたんです。一つポイントになったのは消費社会ですね。僕の考えの根底にはスピノザがありますが、そのスピノザの「倫理学」を、どうやって、消費のロジックが支配する現代社会のなかで実現するかということを考えました。

そういうわけで『暇と退屈の倫理学』は現代社会のことを大きく取り上げています。しかし、それだけではありません。「定住革命」という説を参考にしながら、何万年単位での人類の変化についても考察しています。人類が定住したのは約一万年前です。僕らは定住する人間を本来の人間であるかのように考えてしまいます。しかし少なくとも400万年はさかのぼれる人類史のなかで見れば、定住化はつい最近起こった出来事にすぎない。すると物事の見方、特に人間観が大きく変わるんです。

いま考古学が非常に発達してきていて、その成果が思想史や哲学を塗り替えるという事態が起こりつつあります。何万年単位のパースペクティヴの中で思想を捉えるという営みが始まりつつあるのです。かつて、1960年代には、レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908 - 2009)がもたらした構造主義的な人類学が哲学や思想を大きく塗り替えた。今度は人類学ではなくて考古学がそのような役割を担うのではないかと思っています。哲学と考古学の協働というのはすごく面白いですよね。