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明日へとつなぐ鍵Ⅸ

生命データは、氷山の水面下に眠る。

神戸大学
新矢恭子 准教授

木枯らしが吹き始めると、今年流行のインフルエンザは何型で……と、話題になる。そこで免疫の働きを利用したワクチンの予防接種の出番になるわけだが、ちなみにワクチンの開発と普及には、19世紀フランスの化学細菌学者パスツールが貢献したことが知られている。しかし生体内の免疫機構はたいへん複雑で、今日でもまだまだ、わからないことが多い。動物をモデルとした実験を通じて、主に呼吸器感染症を追っている神戸大学 大学院医学研究科の新矢恭子准教授を訪ねた。

水面下の膨大なデータを有効活用する

生体に、たとえばウイルスのような外部刺激が入ってきた場合を考えると、それが少量なら何も症状が出ませんね。やや強めの刺激が入ってきたら、発病はするけれども、結局は治って体調が戻ります。しかしもっと強い刺激が入ってきたら、生体は耐えられずに死んでしまいます─このような3つの状態を作り出して、全体的な生体の反応パターンを見たいと思っています。そして生体の反応パターンをシミュレーションモデル化して、 “この閾値を超えると肺炎で亡くなってしまう可能性が高い”、“超えなければ生き残る可能性が高い”といったことが、ある程度予測できるようにしたいと考えています。そうすれば刺激に耐えられる生体の状態をつくるための対策が立てられますし、投与する薬剤の選択にも役立てることができます。ひとつのプログラムパターンを開発すれば、別の外部刺激や生体の恒常性破綻の場合にも適用できるので、今取り組んでいる呼吸器感染症だけでなく、おそらくや代謝病の研究などにも使うことができ、たいへん応用範囲が広くなります。

私たちは、マウスなどの動物モデルを使って、刺激の大・中・小に対する肺の反応の時間的な経過を、遺伝子発現の動きで追いかけています。現在、私たちが使っているのは、mRNA(メッセンジャーRNA)の発現の動きをみる「マイクロアレイ法」という方法です。近年は、次世代型シークエンサーの開発により、さらに多くの遺伝子数の検査ができますが、旧来のマイクロアレイ法でも、1検体あたり6万ものデータ量になり、しかも複数の条件下で時間経過を追った、複数のサンプルをとっていくので、ものすごくたくさんのデータが集まります。これを人間が読むためには、膨大なデータの中から、その中にある有用な情報を探し出す「データマイニング」の技術が必要になってきます。それでも、個体を対象にした解析の場合は、遺伝子の発現パターンがあまりにも複雑なので、通常は非常に特徴的な、いわば氷山の一角だけをピックアップして見るためのデータマイニング法が活用され、研究が進められてきました。けれども、もし、その水面下のデータを捨てずに、最大限活用できたらどうなんだろうか?

免疫機構は複雑な生体反応のよい例になります。あれが出るとこれが抑えられ、こっちを抑えるとあっちが動き……、という具合で、とても複雑にバランスを取り合っています。そのため、少なくとも感染症に関しては、顕著に表出しているデータだけをみて、それだけに作用するような処置をしてもあまり効果が挙がらないことが多かったと言えます。つまり、水面下を含めた全体の生体の動きを把握した上で、生体に対してその動きが模倣できるような処置をしないといけないのではないか、と思うのです。特に注目しているのは、遺伝子が動く時の遺伝子同士の関係性です。すでに酵母癌細胞で、遺伝子はある程度まとまって動くことがわかっており、私たちが試験的に行った実験でも、6万の配列の中に、外部刺激に対して束になって発現変動する遺伝子があることがわかっています。

臨床獣医っていうのは動物が相手じゃないんだ

ところで私は小さいころからの夢で、長い間、臨床獣医になりたいと思っていたのです。自分はなぜか人間が嫌いで、動物が好きなのだと思い込んで生きてきた(笑)。ところが大学4年の時に、当時大人気だった病理学の研究室に入ったら、扱う対象は主に死体で、個体が死に至った経緯や病気になった原因を読み解いていくという科学分野でした。学部生時代、ずっとそのような臨床獣医とはかけ離れた分野にいながら、獣医免許を取得後には、それでも懲りずに開業見習いに行きました。一定の研修期間が過ぎて見習い獣医が最初に任せてもらえるのは、比較的診断のやさしい病気、つまり主に軽い消化器系の病気や皮膚病でした。ところが、見習い獣医の私は、皮膚にかゆみがあるという犬に対し、「じゃあ、まず家の回り等、生活環境中の原因調査をしましょう」(笑)─病気の原因を読み解いていくという病理学の頭が抜けきらない状態でした。

その後いったん製薬会社に就職しましたが、結局、山口大学の大学院に入り、研究分野に戻りました。研究は、小さいことでも何かひとつ新しいことがわかると、とてもうれしいのです。しかもその喜びが不定期にやってくる。 “これやってもだめ”“あれやってもだめ”……と、がまんを重ねて取り組んでいたものが、ある日ポッと解決でき、小さな発見につながる。もうすっかりはまり込んで、一生これでやっていけると思っていました。天職だと思ったのです。生物学分野は、やればやるほど「なぜ?」に遭遇しますが、テーマがどんなに小さなものでもよかった。目の前にある生物現象を発見して証明していくことには、興味が尽きなかったですね。

ところが2年ぐらい前から、もうちょっと包括的な自然の法則を把握して説明できなければ、真の意味で世の中の役には立たないのではないか、と思うようになりました。より大きな「生物ってこういうものなんだ」という現象を捉えて、それをみんなに還元することができたら、新薬開発などへの応用も含めて、きっと世の中に役立たせることができるのではないか。そんな時にたまたま会合で、コンピュータサイエンスがご専門で、生物から社会現象まで広く解析の対象としている同年代の研究者にお会いしたのです。パースペクティブが広いから、彼のお話を聞いていると心がわくわくする。私はこれまでにそういう夢のある挑戦をやっていないな、と強く感じたのが、現在の研究テーマをやるきっかけになりました。

鳥から人へ、インフルエンザウイルスの「生き残り戦略」

1997年に初めて鳥インフルエンザが人に感染したという事実が報告されるまで、人間と鳥には種の壁があり、ウイルスが結合するレセプター(受容体)が異なるため、人間は鳥のウイルスには感染しにくいと考えられていました。ところが、人間に感染した鳥インフルエンザウイルスを調べても、ウイルスのレセプター結合性は、鳥のウイルスと同じでした。そこで、人体にあるウイルスのレセプターを改めて調べることになり、肺の奥のほうに、鳥のウイルスレセプターだと信じられていた「鳥型のシアル酸」があることがわかったのです。

インフルエンザウイルスは、環境に合わせてはげしくウイルス群内の変異体構成が変わることが知られています。いろんな変異をつくっておいて、Aという環境ならこの変異体が増える、Bという環境ならこっちの変異体が増えるという具合です。実に楽ちんに世の中をわたっているように見えて、無理にぶつかることもないし、周りの環境に合わせていけばいい。ウイルスが生物だとすれば、見習いたいような生き方ではあるな、と思いますね。

さて、生物は本当にいろんなデータが膨大にあり得て、物理化学の実験のように1つやればユニバーサルに当てはまるような具合にはまったくいきません。しかしそのファジーさこそ、生物が生き残るためには有用なのであって、もしある刺激に対してはこの反応というようにカチッと決まっていたら、たぶん生き残れない─おそらく、生物の戦略でしょうね。だから、これを解明しようとするならば、よほど多角的に見ていかなければいけません。これはこうだと言い切ってしまう生物系は、むしろ危ないと思うのです(笑)。ファジーさにはとことん付き合うつもりでいたほうが気楽だし、自分の言った説が必ず100%の事例に当てはまるのではないと認識しておくことは、後世の人のためでもあります。違うデータが出た時に「なんで俺のデータはそうならないんだ」って、迷うから。「いや、そういうデータがあってもいいんです(笑)」って。むしろその違いの理由探しこそが大切なのだと、いつも思っています。