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大阪大学
人間科学研究科 人間科学専攻
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グローバル・スタディーズ研究科
博士後期課程教授

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近畿大学
文芸学部 文化学科
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三重大学
人文学部 法律経済学科
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可能性を照らす道Ⅵ

セクハラ問題を考えるには。

大阪大学
牟田和恵 教授

「早く結婚したほうがいい」─都議会のセクハラヤジが大きな社会問題になったばかりだが、日本に「セクハラ」という語が登場して、25年になるという。日本での最初の裁判からこの問題に関わり、近著『部長、その恋愛はセクハラです! 』では、セクハラとは何かを改めて広く社会に向けて啓発する、大阪大学大学院 人間科学研究科(社会学)牟田和恵教授を訪ねた。「セクハラ」という問いを立てることで、何が見えてくるのか? 社会学のなかでもジェンダー問題を専門とする牟田教授に、お話をうかがった。

なぜ多くの男性がセクハラに気づかずにいられるのか?

セクハラの問題に着目するようになったのは、研究者として初めて佐賀大学に着任した時に、ちょうど隣の福岡県でセクシャルハラスメントに関する最初の提訴があったのがきっかけです。これは原告個人の問題ではなく働く女性に共通する人権問題だから社会的に訴えていこうというのが、担当弁護士たちの方針でした。女性の労働に関しては、それまでにも雇用差別、賃金差別などは論点になっていましたが、性的な誘いや誹謗を受けるといった一見私的に見えるようなことは、ささいなことであって問題にならないとされていた。けれども、やはりそれも女性が働き続けていく上で非常に重要な問題なんだと。また、たまたまそういったことをする男性上司にあたって運が悪かったといった話ではなく、組織の環境が許しているのだと。このような視点からセクハラが問題とされるようになったのです。こうした視点に非常に共感していましたので、支援組織の代表として裁判に関わり、社会問題として訴えていく活動をしたんです。

日本には性差別を罰する法律がないので、裁判で争うときには、セクハラは民法不法行為として争われることが多いです。つまり、"私人"間の賠償問題になってしまう。しかし私人間の話じゃないんですよ。相手が職場の上司だったり、大学の指導教員だったり、クライアントだったりと、組織が与えている権力があるから、女性がなかなかイヤといえない、本当は気に染まないんだけれどもニコニコ愛想よくしなければならないという事情がある。男性は自分の側にパワーがあることを、利用しているわけですね。だからセクハラとは、会社や学校という公的なところに、性的な関心なり私的なものを不当に持ち込んでくることから起こる問題であるとも言えます。

1999年の雇用機会均等法改正で、企業はセクハラの防止に配慮することが定められ、セクハラ防止規定の作成や相談窓口の設置などの体制が整えられることになりました。被害の訴えがあると企業や大学などが調査して、問題が確認されるとセクハラした人が処分されます。また、それを不当として対抗訴訟を起こされる方もいます。訴えを起こす人の中には、開き直って「自分はそんなことやってない」と強弁する人もいるけれども、他方で、自分の行為の何が悪かったのかわからない、被害を訴えている相手の女性と本当に恋愛していると思っていたというタイプの方もおられます。このようなケースでは、自分の行為がいかに抑圧的であり、相手がどんなに我慢して対応していたかということにまったく気づかない。調査でメールなどの証拠を出されることがよくありますが、相手の女性が非常に気を使って丁寧なメールを出しているのを、相手も自分に好意を持っていた、合意の恋愛だったと証明できているおつもりなんですね。これは不幸なことで、ご本人が納得できないため解決に至らず、ずっとトラブルが続いていくんです。だからこそ学問として、なぜセクハラが起こってしまうのか? なぜ抑圧に気づかずにいられるのか? 組織はなぜそれを許し続けるのか?─まだまだ水面下にあるこれらの謎を解明したいです。言い換えれば、セクハラを通して社会と人間をより深く理解することを目指しています。

近代社会以降の家族と「公私の分離」

世界経済フォーラムが例年、ジェンダー・ギャップ指数を発表していますが、2013年、日本は前回よりもさらに順位を下げて、136カ国中105位でした。その原因のひとつは女性の政治参画の低さ、特に女性議員の少なさです。他の諸国では、女性議員を確実に増やすような施策を、具体的に推進しています。そのための「ポジティブアクション」やクオータ制を何らかのかたちでとっている国は、先進国・発展途上国含めて100ヶ国を超えていますが、日本は含まれておらず、導入の予定も今のところありません。海外では、ポジティブアクションは、議員だけでなく管理職への女性の登用など経済の領域にも活用されているのですが、むしろ日本では「そんなことをしたら、能力もない女性がその仕事に就くようになる」という懸念がよく語られます。話は逆で、男性であるというだけでそれほど能力がなくても出世する、正社員として働ける、という現実に気づいてほしいですね。能力が高い人もいればそれほどでもない人もいるのは、男性も女性も同様ですから。

女性の社会進出に関連して、もうひとつ重要なのは、労働時間の問題です。ワークライフバランスを考えるにも、長時間労働では進まない。しかし労働時間の問題はまさに制度の問題ですから、長時間労働しにくいような政策を積極的に導入すれば、解決できないことではありません。そしてその背後には、やはり近代の産業化社会以降につくられてきた、公私の分離に基づく「家族」観があります。妻が家にいて家事をして、実の子供がいてアットホームな幸せがあって、これを守るためにお父さんは一生懸命働くんだ、という。現代人にはとても強固な家族像に見えるけれども、人間はずっとこのように暮らしてきたわけでは決してありません。近代以降の家族は、むしろ働き手が1.5人程度しかいない、実に脆弱な生活基盤なのです。近代の産業社会以降がつくってきた「公私の分離」を問い直すという作業は、フェミニストをはじめジェンダーの問題に関わる人々の、ひとつの大きな共通認識だと言えるでしょう。

「ケア」という視点で公平性を拡げる

このような視点から、女性だけでなく、外国人をはじめさまざまなバックグラウンドを持った人たちの多様性(diversity)を生かす大切さも、改めて理解することができます。しかし多様性とは、単に存在を「認める」というのでは確保されません。たとえば性的マイノリティの人たちに対して「全然気にしないから」とか「そんなの普通だよ」とか言うけれども、現実に性的マイノリティに対する偏見が浸透している中でそう言うならば、それは偏見のある社会をそのまま肯定し続けることに他なりません。社会の中に、少数派としてさまざまな不利益を抱えてきた彼ら・彼女らをサポートしていく体制があって初めて、ダイバーシティを生かすことが可能になるわけですね。

今、高齢化の問題から、ケアへの着目が社会学的な大きなテーマになっていますが、これとも問題関心はつながっています。「公」にいられるのは健常な大人で、それ以外の人たちは子育てにしても老人介護にしても、あくまでも「私」の中で面倒を見てもらってきた。しかしそれでは成り立たないことが見えてきました。子育ては妻に任せていられた男性たちも、超高齢社会の中で、親や妻の介護に否が応でも向き合わなくてはいけない人たちが多く出てきているわけですね。近代合理的な人間観では、人はフルに機能できて当たり前なんだという前提で、社会のしくみも諸制度もできあがってきていた、このことの問題性です。しかしよく考えてみれば、人間はそもそも人生の最初の15年と、老年期の10年ぐらいは誰かに世話をしてもらって生きているわけですね。つまり、人間とは、人生のかなりの時間を人に世話してもらうことが必要な存在なのだというふうに、人間観が変わる必要があるんです。

フェミニズムって、女も男と同じような権利を得て、同じように活躍できるようになればいいんでしょ」と言われることがありますけれども、フェミニズム理解としてはそれは話半分どころか1/10ぐらいのもの。むしろ、人間はケアが必要な存在であり、依存とケアは必然なのだという人間観のもとで、ケアの担い手になることが不利にならない、ケアを社会的責任として捉えていく社会構造をどうつくれるのかという、非常にアンビシャスな企てなんです。男女共同参画も、国会議員や企業の管理職の女性比率を上げることは必要なことですが、それだけがゴールじゃない。仮に議員の半分が女性、社長の半分が女性になったとして、人間観が変わらないままで、現在のように健常で24時間働けますというような人しか活躍できないというのが変わらないなら、意味はありません。依存ケアがより不利な立場にいる人々に押し付けられていくだけです。つまり、男も女も等しく巻き込まれる、グローバルに広がる新たな身分差別によって、今貧しい人たちをより貧しく、より搾取する方向での解決ということになりかねません。これは非常に近い未来像であって、こういったことを見極めて行くのも研究の大事なところだと思っています。