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変化をひらくドアXI

薬を創るという挑戦。

京都府立医科大学
鈴木孝禎 教授

スティーブ・ジョブスの命を奪ったとされる膵臓癌は、まだ決め手となる治療薬がない病気のひとつだが、このような病気に苦しんでいる患者さんを救うべく、努力が続けられている研究分野もある。「ファーマドリーム」─ひと粒の薬が、世界の何千、何万もの患者さんを救う可能性を持つ「創薬」という挑戦に関わる領域だ。そこで今回は、ヒトゲノム解読以降、注目を集める研究分野「エピジェネティクス」で、創薬に取り組む京都府立医科大学の鈴木孝禎教授に、お訊きした。

「後から生まれた」遺伝学!?

分子生物学には「セントラルドグマ」という、教科書には必ず書いてあるような中心的な教義があります。それは、まずDNAが唯一の遺伝情報の情報源だということ。そしてこれが「転写」されて、メッセンジャーRNA(mRNA)というものが作られるということ。さらにmRNADNAから写し取った遺伝情報「翻訳」してタンパク質を合成し、このタンパク質が体の中で正常に機能を発揮することで、いろんな生命現象が営まれていく─というものです。われわれの体が活動できるのも、タンパク質が正常に働いているからですね。

2003年4月、全ヒトゲノム解読が完了して、人類の30億塩基対のDNA配列が全部解明されました。すると、DNAは唯一の情報源であるとするセントラルドグマによれば、これで生命現象まで全部わかるはずだということになります。でも、実際にはそんなことはないんですね。たとえばわれわれの体の中には神経細胞、皮膚の細胞、免疫に関わるT細胞など、いろんな細胞があります。源をたどれば1つの受精卵細胞から分化してきたもので、どの細胞の中にあるDNA配列もすべて同じです。でもこれらの細胞は見た目もぜんぜん違うし、機能もぜんぜん違う。それはどうしてでしょうか?

おそらく「転写」の過程で、細胞ごとにどの遺伝子を発現し、どの遺伝子は発現させないで眠ったままにしておくかが決められてきたのだと考えられます。そのようなDNAの塩基配列に依らない遺伝子「読み取り」のメカニズム─これが、エピジェネティクス(Epigenetics)の定義なんですね。エピ(epi-)とは「後生の」とか「後から生まれた」といった意味で、エピジェネティクスとはあとから来た遺伝学といった意味合いにもなります。

遺伝子の発現をコントロールするしくみ

エピジェネティクスの機構の1つにヒストンという分子が関わっています。DNAの図を見ると、よくヒストンの回りにDNAが巻き付いている様子が描かれています(イラストレーション参照。アメリカ化学会(American Chemical Society)による図を元に作図したもの)。ヒストンというのは、昔はDNAをコンパクトに折りたたんで核の中に収納しておく、貯蔵庫のような役割を担っていると考えられていました。ところがそのような「静的な役割」の他に、エピジェネティクスによって、遺伝子の発現を制御するという「動的な役割」も果たしていることがわかってきたんです。より具体的に言うと、ヒストンの中にリシンというアミノ酸があり、このリシンのメチル化アセチル化と呼ばれる状態の変化が、遺伝子発現のマーカーになって働いています。メチル化・アセチル化というのは、メチル基・アセチル基がリシンにくっついた状態「修飾」といいます─になることです。反対に、外れた状態にするのが脱メチル化・脱アセチル化です。リシンがアセチル化しているかしていないかといった状態の違いが、特定の遺伝子を発現させるオン・オフのスイッチになっているのです。

そしてより重要なのは、遺伝子情報の読み取り異常などで、本来ならばアセチル化されているべきリシンがアセチル化されていないと、これが原因で病気になることがあることです。ほとんどすべてので、このようなエピジェネティクスの異常が見られます。そこでアセチル基やメチル基が、リシンについたり外れたりするのを制御することで、癌や神経変性疾患などの治療薬が創れる可能性がある。実は、リシンのアセチル基やメチル基を外したりつけたりしているのは、酵素なんです。酵素の働きを止めてやると、リシンをメチル化したり、脱メチル化したりできる。そこで今研究室でやっているのは、メチル基を外してしまう酵素の働きを止める薬の設計です。具体的には、その酵素にだけうまくくっつくような小さな化合物分子設計します。これが「ヒストン脱メチル化酵素の阻害剤」です。

さて、分子設計ができたら今度は実際に「合成」して、本当に仮説通りに働くかどうかを確かめます。ヌードマウスにヒトのがん細胞を移植したところ、化合物を投与していないマウスの癌はどんどん大きくなりましたが、投与したマウスの癌細胞はまったく増えなくなることがわかりました。これによって、ヒストン脱メチル化酵素の働きを止めることで、本当に癌を防げるんだという証拠「proof of concept」を示すことができたわけです。僕が頭の中で考え始めてから、この目標達成まで2〜3年ぐらい。実際に薬になるまでにはもっとかかります。

まだこの世にない新しい分子を設計する

薬を創るというのは魅力的だなあ、と僕が思い始めたのはずいぶん以前からです。僕は漫画の世代で、たとえばドラえもんが出す道具の中には、食べて体の中で効くようなものがあるんですよ。そういうのをおもしろいなと。そのような子供の頃の夢を忘れずにいることは大切で、特に研究者は、ずっと持ち続けないとだめなんじゃないでしょうか。

その後大学に進学して、4年生の時に薬を創る研究室に入ったのですが、残念ながら薬を創る研究テーマは与えられず、その後会社に就職して初めて創薬研究をやりました。自分で分子を設計して、自分の手でこの世にないものを創る。これが化学の醍醐味で、化学者は何もないところから自分の頭の中で分子を組み立てて、今までにない新しい機能を生み出すことができるんです。可能性は無限にあります。会社時代の薬は結局、臨床試験までいき、この時の体験は今も非常に役立っていますね。

また今後は癌のほか、アルツハイマーなどの神経変性疾患でもエピジェネティクスの異常が指摘されており、注目しています。膵臓癌やアルツハイマーの薬は、現在のところ、あくまで状態を少しでも改善する薬であって、根本的な治療薬がないんですね。けれどもエピジェネティクスを制御するような化合物であれば根本から治すことも可能ですから、そういう薬もこれから創っていきたいと考えています。