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おとなりの研究者
武蔵野大学
人間科学部 人間科学部教養教育
講師

旧所属 日本大学 文理学部 哲学科
教授,東京大学名誉教授

広島大学
大学院教育学研究科2 教育人間科学専攻 大学院教育学研究科2 教育人間科学専攻
助教授

金沢大学
人間社会研究域 人間科学系 人間社会研究域 人間科学系

北海道大学
大学院文学研究科 思想文化学専攻 哲学講座
助教

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可能性を照らす道Ⅱ

哲学は鼓舞する。。

新潟大学
古田徹也 准教授

佐渡島を横たえた日本海の上を、ゆっくりと太陽が横切っていく─新潟大学教育学部の研究室からの風景だ。東京では決して見られない広い空を仰ぎつつ、「インターネットの発達のおかげで、東京に居ないデメリットは減ってきている」と古田徹也准教授は言う。主たる関心を注ぐルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889 - 1951)を読み、書き、そして一般教養過程をはじめとする講義を受け持って、学生と対話する。そのような活動のさなかからうまれた『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』を巡りつつ、お話をうかがった。

立ち止まることから哲学的思考は始まる。

若い時に多くの人が、たとえば「なぜ世界はあるんだろう?」とか、「自分が見ているこのは、他人が見ているのとほんとうに同じ色なんだろうか?」といった疑問を持ったことがあると思います。実際、何度か授業で学生アンケートをとってみたことがあるんですが、早い人では小学生のときにそういう疑問を持った体験をしている。やはり人は「問う」存在であって、途方に暮れてしまうような疑問や違和感を持たずにはいられないわけですね。哲学的な思考とは、さしあたり、そのような素朴と言えば素朴な問いの前に立ち止まって、普段は通り過ぎていたものを見つめ直すという営みだと言うことができるでしょう。それによって見方が変わり、その変化がさらに他の見方にも波及していきます。

僕の場合、哲学へのきっかけは、大学に入ってから読んだウィトゲンシュタインが大きく関わっています。ウィトゲンシュタインの文章は、とりわけ『哲学探究』がそうですが、自己対話を繰り返し、疑問を提示しては著者自身がそれに答えるという応酬が際限なく続いていくスタイルです。その文章を読んでいると、次第に自分もその問いの中に巻き込まれていって、それについて考えざるを得ないという、これまでにはない不思議な読書体験をしました。それは、小説エッセイなどを読んだときは全く違う種類の、鮮烈で愉しい読書体験でした。問いのひとつひとつはごく些細な疑問が多いのですが、それを育てていくうちに、いつの間にか、たとえば「言語とは何か?」とか「人間とは何か?」というような大きな問題へ踏み込んでいる。何かについて考えるということはなんて深く幅広いのだろう、自分は今まで、少なくともウィトゲンシュタインよりははるかにものを考えていなかったということに気づいて、目を開かれる気持ちがあったんです。

哲学というのは、およそあらゆるものを論じるものなので、これは哲学の領域ではないという境界はあえて設けない。そして、考えていくためには、まずは論理が大切です。印象で語らない、データに頼らない。とにかくやはり、読み、書き、筋道立てて考えることを実践するしかありません。また、他の学問とは異なり、哲学は立ち止まる営みであって、その思考の展開のあとに何かを「前進させる」というわけではありません。つまり、科学的発見がもたらす種類の「進歩」を、哲学がもたらすわけではない。ウィトゲンシュタインの言い方に倣えば「すべてをありのままにしておく」わけですね。何らかの事柄に対してつまずいたときの違和感をできるだけ明晰にして、その原因を突き止めようと、その場に踏みとどまる。そこには、誰よりも先んじて、一秒でも早くインパクトの大きな成果を出さなければならないという、前のめりにはやる気持ちやプレッシャーのようなものはありません。その点で、ぬるま湯と批判を受けるかもしれない。でもだからこそ、ひょっとするとぐっと遠くへ、はるか前に進んでいる可能性がある。たとえばある哲学的議論が、他の学問分野で数十年後になって再発見されたということがよくあります。逆説的ですが、そのときどきの流行に闇雲に乗ろうとせず、立ち止まって周囲をゆっくり見渡すことによって、将来の実践的な議論や研究のためのヒントを哲学が先取りすることもあり得るんですね。

事例を起点にする、ということ。

『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』ではいろんな事例を採り上げました。この本は元々講義ノートとして一から書き始めたものなので、講義が抽象的な議論に終始しないほうが聴く方は退屈にならないだろうし、また何より、学生自身で、各人の周辺とつながる具体的な場と関連づけて哲学の議論を捉えてほしいと考えました。その結果として事例の紹介がかなり多くなったわけです。たとえば本の中にある、「完璧な安全運転をしていたトラックの運転手が、飛び出してきた子供を轢いてしまった」という事例は、大切にしたいもののひとつなんですね。子供が亡くなったことについて、運転手は自分に落ち度がなくても、罪悪感を持つ。学生にこの事例を提示すると、皆さん、とても真剣に悩み考えてくれます。また、講義だけでなく、哲学の専門的な研究の領域においても、実際の事例であれ、想像上の事例であれ、そうした事例を起点に考えていくしかないような議論の領域があるのではないかと、最近は考えています。

実はこの本に入れられなかった事例もいくつかあって、たとえばこういう例です。妻が海外から帰ってきて、空港に到着する。夫はその到着に合わせて車で迎えに行こうとするが、途中で交通事故に遭って亡くなってしまう。妻は空港でその知らせを知り、自分を責め、夫に対して「申し訳ない」と感じる。─ある種の哲学的議論からすると、夫の死は妻の行為の結果ではないのだから、自分を責めるのは不合理だと見ることができる。けれども、この妻が自分を責める気持ちは、みんな多かれ少なかれ理解できるんではないかと思います。この事例をめぐって考えるのは非常に難しいんですが、少なくとも、「責任」あるいは「責め」という概念の適用範囲は「行為」という概念の適用範囲と完全に重なり合うわけではない、ということは言えそうです。ちなみに、いま挙げた例とおそらく関連するものとして、「サバイバーズ・ギルト(Survivor's guilt)」というものがあります。これは、たとえば列車の脱線事故で、隣りに座っていた人は亡くなったのに自分は偶然助かった、といったことに対して生存者が抱く罪悪感のことです。この種の感情を抱く人が少なくないことは、東日本大震災における津波災害などでも指摘されています。

このような事例を考える上でもうひとつポイントになるのは、事例の主役となる「その人」(妻、トラック運転手、事故の生存者、…)自身の存在が本質的に重要だという点です。つまり、何かしら思い、考え、割り切れない「責め」や「後悔」の感情を抱いている、その当人の存在を抜きにしては、そもそも話が成り立たなくなるんですね。学問はどうしても一般論にならざるを得ませんが、統計的あるいは俯瞰的にのみ見ていては、そうした「その人」個人の存在や、その人が抱える割り切れない感情というものが、どこかにかき消えてしまう。哲学やその一分野である倫理学も、もちろん学問ではあるのですが、それでも、のっぺりした一般論だけで物事を考えていてはこぼれていってしまうものについて考える役目も課されていると思います。というのも、統計や俯瞰的視点には回収されない個々人の存在や、それぞれが抱く割り切れない感情というものを抜きにしては、私たちが生きるこの世界の実相を、真理を、捉えられるはずがありませんから。

ウィトゲンシュタインと対話する。

研究において、僕がこれまでも、これからも、ずっと従っているのは、基本的にウィトゲンシュタインを読むこと、対話することです。自分なんぞが考え得ることはたかが知れているのだから、ウィトゲンシュタインと擬似的であっても対話を重ねて、その言わんとしていることを極力すくい取っていこう、という作業ですね。すぐに批判の目を向けて彼の繊細な議論を単純化させるのではなく、むしろいわば「寛容の原則」を働かせて、ウィトゲンシュタインの思考の全体像を理解したい。それは、僕の研究活動にとっての大きな幹みたいなものであり、今回の本も、その幹から時折伸びてくる枝のようなもののひとつだと考えています。

ウィトゲンシュタインは現代の人ですが、その著作はもはや古典の仲間入りをしていると言ってよいでしょう。哲学の古典を読むというのは、おもしろいけど難しい。古典を読むためには、ドイツ語英語などを読めるというだけでは全然だめで、「これ」という仕方で簡単に説明することが難しい技術が他にたくさん必要です。僕も、古典を読む技術は、大学で先生や他の学部生・院生たちと一緒に演習なり読書会なりを10年ぐらい続けることでようやくある程度身についたものです。そうした技術を後の世代に伝え、育むというのは、人文学的な大学教育にとって極めて大事なポイントだと思っています。それから、古典を読むことは、ただそれ自体がおもしろいというだけではなく、そこから多様な事柄に結びつくひろがりをもっています。ウィトゲンシュタインで言えば、彼の周辺を調べていくとウィーン文化との関連が深く、その中心的存在だったカール・クラウスなど、いろいろとおもしろい題材が見つかります。行為論も、いま申し上げた通り、僕自身はウィトゲンシュタインという古典を読むなかで見つかった題材です。

ただ、古典も、そこから派生する題材も、それらを理解するためにはただ読んでいるだけではだめで、やっぱり書かなければいけない。書くことは、読むことにどこかで踏ん切りをつけることでもあって、頭の中で考えているときはわかったつもりでも、書いてみたらぜんぜんわかっていなかったということもよくあるわけです(笑)。だからこそ、書くことに意味がある。書くうちに、自分の思いもよらなかったこと、自分のあらかじめのもくろみを超えたものが、いわば手から生まれてくる。それは非常にスリリングで大事なことだと思います。

ところで、わかったつもりにさせる、という意味では、実は哲学的な専門用語もこれに近い役割を果たしてしまっていることがあります。専門用語は、狭い分野の中では議論を円滑に流れさせるためにうまく機能するのですが、それをふつうの言葉に移し換えようとすると、むしろ話が滞ってしまうというか、次々と疑問が湧いてくることの方が多い。哲学の問題というのは、どんなに冗長な言葉になっても、最終的には一般的な日常の言葉で語り直すことができないと、理解や解決をしていることにならないと思います。これは、他の分野と異なる哲学の大きな特徴と言えるのではないでしょうか。