1989年、僕がちょうど院生になる頃に、遺伝子改変マウス(ノックアウトマウス)というのが出てきたんですね。実に画期的な発明で、開発者は2007年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。そしてこのマウスを利根川進先生が脳科学に持ち込み、初めてその論文が出てきたのが1992年のことでした。
そんな技術があるんだ、と思いました。心の性質や性格、知能といったものがどう遺伝するかというのは心理学の歴史でも大きなトピックであったわけです。それまで一卵性双生児の研究などから親から遺伝するということはわかっていたけれども、具体的にどういうタンパク質をコードするどの遺伝子がどのように脳で働いて、心の性質に影響を与えているのかを調べる方法はありませんでした。
ターゲットの動物を選ぶのって、まさに出会いみたいなものなんです。新しい遺伝子改変マウスは、この心理学の大問題を、直接調べることができる方法でした。そこで僕は、それまでやろうと思っていたサルの研究をやめて、マウスをやることにした。その時から研究はずっと今に続いています。
ただ僕が始めた当初は、もっとすごく小さい規模で、マウスを作っては不安を調べましょう、そのために装置を作りましょう、解析するプログラムを書きましょうという具合で、1系統調べるのに5年ぐらいかけていました。現在、われわれの研究室では1年で20系統、この7年間で140系統近く行っています。スピードがぜんぜん違います。
ところでこの140系統のうち130前後について、脳で発現している遺伝子のどれか1つなくなったら、行動異常を起こしたり、あるいはこころの特徴に影響を与えたりすることがわかっています。一方で、ゲノム上の遺伝子の約80%は脳でも発現しているという報告があります。つまり、ゲノム上にコードされている遺伝子のかなりの部分が、行動や脳の機能に影響を与えているという可能性が示唆されるわけなんです。
では人間はどうなんだろうか?──自分の頭の中は実に複雑なシステムで、まだわからないことがいっぱい詰まっていて、これから知りたいこと、調べなければならないことが山ほどある。アメリカの神経科学会などでは、脳は宇宙開発と肩を並べるフロンティアだなどと言われますが、自分のこの頭こそがフロンティアだというのは僕の実感でもある。好奇心は尽きません。