ネズミは四角形が出たならば右のレバーを押す、三角形が出たら左のレバーを押す、というのを覚えることができます。これを覚えたネズミに、今度はさっきとは逆に右のレバーを押して四角形を出しましょうというのをやらせようとすると、できないんですね。サルでも赤色を示して「赤」という文字を覚えさせた後、逆に、文字を見せて、並んだ色の中から赤色を選ばせると、選べない。つまり「AならばB」を覚えた動物は、それが「BならばA」と逆に考えることができないんですね。これができるのは、ヒトだけなんです。
でもね、ちょっとよーく考えてもらいたいんです。ヒトは間違っているんです。論理学で、必要条件・十分条件って習いましたよね。「AならばB」であっても「BならばA」とは限らないと。
「山田先生は、数学の先生である。」であれば、
「数学の先生は、山田先生である。」か?
これ間違いなんですよ。つまり動物のほうが正しい。私たちはなぜか「AならばB」と聞くと「BならばA」だと勘違いして、ほとんど盲目的に信じてしまうんです。
いま風評被害と呼ばれているのも、とんでもない例で、まさに逆を信じちゃってるわけですね。たとえば、海外で問題になった「日本の製品は、放射能を含んでいる」っていうのは風評被害ですね。放射能を含んでいる物質は、確かに日本から来た可能性があるけれど、その逆は真ではない。それなのに「放射能ならば日本」と聞くと「日本ならば放射能」とやってしまう。このことは十分考えなければいけないと思います。同じように「中国製=悪質」というのも、かなりまずいことだと思います。
一方で、じゃあ、これができることのすばらしさって何だろう?──それは、厳密にロジカルな思考だけでは、何も新しい考えは生まれないということなんです。論理的に正しい推論の代表は演繹法ですね。これに対して帰納法というのがあります。卵が1パックあって、中の1つを割ったら腐っていた、もう1つ割ったら腐っていた、3つ目のも腐っていた……すると人間は「このパックの卵は全部だめかな」と思う。でも、他の卵が腐っていると考える論理的な根拠はないし、本当に腐っているかどうかは、すべて調べてみない限りわからないですよね。でも、私たちは自然と推論する。これが帰納です。この推論の源をたどれば「AならばB」であれば「BならばA」と考える人間の癖から来ている。サイエンスというのもおそらく、この勘違いがあるからこそ成立する学問なんです。
さらにこの帰納の一種で、示唆的な事実を選び取って仮説を構築する「アブダクション」という拡張的な推論形式があるんですけれども、人は小さな子供でもこのアブダクションやっちゃうんですよね。たとえば言語を覚えはじめのアメリカの子供は、動詞の過去形の背後にあるルールを勝手に推測して「-ed」を付けます。だから「make-made-made」などの不規則動詞を、「maked」などと言い間違えたりするんです。ということは、人の場合、教えられたから推論するんじゃなくて、かなり本能に近い部分でアブダクションの能力を持っていると考えることができます。
さて、実はこのアブダクションができるってことが、人間の脳を特徴づけている再帰的な性質「リカージョン」と関係があります。このリカージョン、帰納・アブダクションを持ったから言語ができたのか、言語を持ったからリカージョンができるのかというのはわかりません……どちらかというと、私は言語以前かなと思っているんですけれどね。