僕の『スピノザの方法』に少しでもいいところがあるとしたら、それはあの本がスピノザの側の言葉からではなく、デカルトの側の言葉で書いてあるところだと思います。たとえばスピノザの側の言葉で書いたら「直観知こそが大切だ」という話で終わるところ、敢えてデカルトの側から「直観」を眺めて書いているんです。だからこそ「直観は公に証明できない」という視点が出てくる。スピノザのことを理解してもらうためには、それを理解してもらいたい人たちが使っている言語で書かねばなりません。そしてスピノザの側の言語というのは今の時点ではまだあまり普及していないんです。
自分とは違う立場の言葉で書くというのはとても大切なことです。言い換えれば、〝新しい考え〟を〝古い言葉〟で書かねばならないということですね。たとえば、『暇と退屈の倫理学』で「本来性なき疎外」という概念を提唱していますが、これもその実践の産物です。この言葉で僕が言いたかったのは、単にスピノザ的な「活動能力」の話なんです。活動能力を低下させる状況があるならば、それを変更せねばならない、と。けれども、こういう形で説明しても少しも人の心に響かない。だから、これを非スピノザ的な言葉遣いで書いた。「疎外」がそれですね。そして「疎外」という言葉が常に想起させる「本来性」という語を持ちだし、「疎外は指摘するけれど、だからといって本来性を想定しているわけではない」という、ちょっと考えないと分からない概念を提示したのです。僕は「本来性」というものを認めませんので、まさしく自分とは違う立場の言葉で書くということの実践です。
実はあるセミナーで、ジャック・デリダの専門家である宮﨑裕助新潟大学准教授にこの話をしたところ、彼から「それこそデリダが言っていた脱構築の戦略だ」と教えてもらったのです。「なるほど!」と思いました。新しい思想を古い言葉で書き記す。非常に重要なことです。そうしたら実はスピノザも同じことを実践していたのではないかと思い至った。たとえば彼は非常に古い形而上学の言葉で書いていますが、そこに書かれているのは全く新しい(今でも新しい)思想です。あるいは彼は「自然界には善も悪もない」と指摘しながらも、その上で「しかし我々はこの言葉を保持せねばならない」と言って、先に紹介した「活動能力」の話をする。これはまさしく新しい思想を古い言葉で書き記すという実践、脱構築的な実践ではないでしょうか。