file 02:扱いにくい「行為」

『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』では、人間を見つめ直すいろいろな角度のひとつとして、「行為」という概念を選びました。私たちや、私たちが住まう世界を、この概念でどこまで掘り下げることができるのかを試みたわけです。あらかじめきちんとしたあらすじや、どこかへ向かって収束させようといった結論があって書いたのではありません。そうではなく、小さなひとつひとつの問いに対して、自分なりに考えられるだけの思考を積み重ねた結果であり、どんな出口につながっていくのか自分でも楽しみに思いながら書いていきました。

そして最終的には、行為という概念について考えることが難しい理由がうっすら見えてきたように思います。実は「行為論」というのは、それこそアリストテレスの昔から議論されている古典的なジャンルなのですが、認識論存在論(形而上学)などと比べても、なかなか煮え切らず、成熟しない面がある。どうも「行為」というのは、哲学が扱いにくいテーマなんだろうと思います。ところがややこしいことに……扱いにくいということは、まさに哲学のテーマにふさわしいとも言えるんですね。逆に言うと、認識論や存在論という枠で行われている議論の一部には、もはや哲学的な議論ではなくなっているものも多少あるように思えます。