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おとなりの研究者
武蔵野大学
人間科学部 人間科学科
准教授

旧所属 日本大学 文理学部 哲学科
教授,東京大学名誉教授

北海道大学
大学院文学研究科 思想文化学専攻 哲学講座
助教

金沢大学
事務局
理事

慶應義塾大学
文学部
教授

file 02:扱いにくい「行為」

『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』では、人間を見つめ直すいろいろな角度のひとつとして、「行為」という概念を選びました。私たちや、私たちが住まう世界を、この概念でどこまで掘り下げることができるのかを試みたわけです。あらかじめきちんとしたあらすじや、どこかへ向かって収束させようといった結論があって書いたのではありません。そうではなく、小さなひとつひとつの問いに対して、自分なりに考えられるだけの思考を積み重ねた結果であり、どんな出口につながっていくのか自分でも楽しみに思いながら書いていきました。

そして最終的には、行為という概念について考えることが難しい理由がうっすら見えてきたように思います。実は「行為論」というのは、それこそアリストテレスの昔から議論されている古典的なジャンルなのですが、認識論存在論(形而上学)などと比べても、なかなか煮え切らず、成熟しない面がある。どうも「行為」というのは、哲学が扱いにくいテーマなんだろうと思います。ところがややこしいことに……扱いにくいということは、まさに哲学のテーマにふさわしいとも言えるんですね。逆に言うと、認識論や存在論という枠で行われている議論の一部には、もはや哲学的な議論ではなくなっているものも多少あるように思えます。