researchmapには2010年12月現在87の「コミュニティ」があるが、中でもなんと1,100人を超えるメンバーが集まり、融合的な最先端研究を促進しているコミュがある。その名も「包括脳ネットワーク」──このコミュの世話人をつとめるのは、遺伝子改変マウスによる脳科学研究で知られる藤田保健衛生大学 総合医科学研究所の宮川剛教授だ。脳をめぐるフロンティアでは今どのように研究が進められているのか、researchmapの新井紀子教授(数学)と、宮川教授の研究室を訪ねた。
新井:研究の世界では、融合的な研究をどんどん行わないと、国際的な競争に勝ち残れないという時代にますますなってきています。そんな中、脳科学はパイオニア的な役割を担っているように見受けられます。この分野、脳と言えばまず、部位によってそれぞれ司っているものが違い、事故などでたとえば「ブローカ野」という部位が破壊されると「ブローカ失語」の症状を示すといった話は有名ですね。
宮川:ええ、その種の研究は長い間、脳科学のメインストリームでしたね。脳の破壊実験や細胞構築学的な区分というのは古く、20世紀初頭ぐらいからあるんです。
新井:それが1990年代頃から、コンピュータ・サイエンスやゲノムに近づいて、変わってきた感じがありました。
宮川:はい、1980~90年代にかけて分子生物学が急速に発展して、ゲノムへと進んでいきました。
新井:現在、脳科学というと分野に入ってこられる方には、どんな系統の方がいらっしゃるんでしょうか?
宮川:まず一つには、たとえばサルの脳のいろんな部位に電極を差しておいて、いろいろな課題をさせ、脳の細胞がどう活動するかを見たり、脳の中の活動をファンクショナルMRIやPETなどを使って見ていくような、いわゆるシステム脳科学ですね。この中には、医学系・理学系だけでなく心理学から入ってきた人も多いです。他にもいろいろな系統があって、脳を取り出して切片にして神経細胞や神経回路の電気的な性質を見るような生理学や、脳がどのようにしてできてくるのか発達を調べる神経発生学、脳の細胞の形態を調べる神経解剖学、脳に効く薬物を研究する神経薬理学、神経疾患や精神疾患などの脳の病気のメカニズムを研究する病態脳科学などなど。で、これらとはずいぶん違ってロボットを作るために脳を知りたいという工学系の人もいますし、特定の分子や分子ファミリー等に着目している生化学やモレキュラー・バイオロジー系の人たちも多いです。脳を知りたくてその分子に行き着いた人もいる一方で、特定の分子やタンパク質を追って脳へやってきた人もいるわけです。
新井:私たちの脳の中で起こっていることも、突き詰めれば化学反応に帰着できると考えて、分子レベルでの反応を追っているということですね。──文系でも脳科学への関心は高まっていますよね?
宮川:教育学、それから経済学と融合したニューロ・エコノミクスやニューロ・マーケティングといった分野も最近活発です。実験室で複数の被験者にゲームのような経済学的な課題をさせ、MRIなどで脳の中で何が起こっているかを見ます。
宮川:今ざっと挙げたものの中では、僕はもともと「心理学系」なんですけれども、まず何らかの機能を調べるために特定の遺伝子を「ノックアウト」したマウスが作られます。われわれの研究室では記憶学習、不安・恐怖、注意、社会的行動、うつ様の行動、運動能力……のようにさまざまな行動のカテゴリーのテストを網羅的に集めて「テストバッテリー」を組み、この遺伝子改変マウスに順番に検査テストを巡ってもらいます。
新井:テストの項目と改変マウスをたくさん作る?
宮川:いや、自分の研究室で作っているマウスは2、3系統です。しかし日本全体でみるといろんな改変マウスを作っている研究室がたくさんある。そこでわれわれは行動という切り口で、それぞれの研究室から送られてくる特定の遺伝子を持たないマウスと正常なマウスを20匹ずつテストバッテリーにかけて、2~3ヵ月でデータをとっていくわけです。
新井:マウスも実験に不可欠なツールとして、みんなで共有しようということですね。すると同じツールを作りながらも深く調べられる。
宮川:遺伝子というのは、何かのためだけに働いているということはむしろ非常に少なくて、あちこちでいろんな役割を果たしている。別の視点から調べたら、思わぬ結果が出てくることがあるんですよ。
新井:研究室ごとの縦割りではなく、横につないでいかなければ勝てないですね。
宮川:ええ。そういう目的もあり2005~2009年にかけて「統合脳」という特定領域研究が行われ、また、2010年から新学術領域研究「包括脳ネットワーク」が始まったんです。以前は、確かに特定の実験技術ごとに縦割りになっている感じがありました。最近はまずトピックを立てて──たとえば記憶・学習、睡眠、統合失調症などのメカニズム解明というように──分野横断的な技術やノウハウをいろいろ使って解明していく傾向にあります。
新井:なるほど「睡眠」ならば、睡眠に関わる遺伝子の解明、心理や睡眠に関する数理モデル、というようにいろんな叡知を結集しようということですね。
宮川:つなぐにはまず、どこにどういうマウスがいるか、誰がどのような解析技術をもっているか、ということを、ネットを使って積極的に公開しないといけない。次にそういう自分にない技術を持つ人と共同研究をしたいわけですけれども一番気になるのは、相手がどんな人物かということですね。相手を知らないと、メールを送ろうにも、やはりどうしても「壁」がある。
新井:そう、信頼を獲得するためには、まず情報を公開しないといけない。今ちょうど研究の世界も、北大の山岸俊男先生(『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方』)が言われる「安心社会から信頼社会へ」の潮目なんだろうと思います。地中海のマグリブ商人たちは、騙されないように仲間内だけで商売をしていました。仲間内ならば出自もはっきりしているし、変なことをすればすぐにわかります。ただし、これは安心である一方、よりよい商売相手に出会う機会を失うことになります。対して、ジェノヴァは民事裁判など法整備をすることによって信頼社会を築いた。これによって、12世紀地中海貿易の覇権はマグリブ商人からジェノヴァに移ることになりました。異分野間の信頼基盤を構築するにはコストもかかりますが、その代わりに、機会が得られるメリットがありますね。
宮川:どう信頼を構築するか──僕は壁を低くすることが重要だと思うんです。「包括脳ネットワーク」は研究者であれば誰でも会員になれるようにすることによって、コミュニティの境界線をものすごく拡げようとしています。また研究支援も行って、共同研究の「壁」をできるだけ低くする。researchmapがこれまでの学術サービスと明らかに違うなあと感じるのは、まず顔写真を掲載する欄もあって文字通り「顔が見える」ことですよね。そしてその人の生の情報が、たとえば自己紹介のような短い文章の中にも現れて、読む人が感じ取ることができる。もちろん知りたいと思えば、判断基準となるような研究業績などの研究者情報も見ることができますし。
新井:このような分散系のネットワークがある一方で、大きい研究機関を設立して人材を物理的に集めてしまうやり方もありますね。
宮川:今後は分散系が伸びていくと思いますね。物理的にまとめるというのはフレキシビリティが著しく低いですよ。研究の大きな動向も変わっていくし、データ次第でその時必要な共同研究もどんどん変わっていく。
新井:教育、心理、哲学、こころの科学といった分野との融合研究も進むといいですね。
宮川:アメリカでは別の分野から来て違う学部のポストにつくといったことがふつうに起こっていますから、融合はもはや戦略なんです。今それをやらないと、たぶん世界から取り残されますね。
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山岸 俊男
中央公論新社 1999年6月 ISBN-13: 978-4121014795 |
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宮川 剛
NHK出版 2011年2月 ISBN-13: 978-4140883426 |