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研究の壁を越えたとき III

歌は時につれ 時は歌につれ。

甲南大学文学部
田中貴子教授×国立情報学研究所
新井紀子教授

いわゆる「理系」では研究の最先端に注目が集まるのに対して、「文系」の学問は現在・過去・未来を逍遙する知的伝統を持つ。そこで今回は、日本の中世文学を専門とし、近代・現代にわたる広いパースペクティブをお持ちの田中貴子教授をお招きし、researchmapの新井紀子教授(数学)を聞き手に、学問の方法から教育問題、研究の将来像まで幅広く議論していただいた。

古文ぎらい・数学ぎらい

新井:本日はようこそお越しくださいました。お話の前にさっそくながら、私、日本文学の教養がないんです。(笑)
田中:いや私も、大学入試以来、数学を使っていないくらいで。(笑)
新井:田中さんのご著書のうち特に『あやかし考』『中世幻妖』などを読んでいると、この人、果たして中学・高校時代「古文」が好きだったんだろうか?─と。
田中:ええ、きらいでした。
新井:やっぱり! 私も中高の数学がすごくダメだったんですよ。だから、きっと共通点があるんじゃないかなと思いました。きらいな人の視点といいますか。
田中:ええ、そうですね。

新井:それから、私は古文を読んでいると、よく登場人物の行動が理解できないことがあるんです。歌舞伎も好きで観に行くんですけど、特に時代物などで「あの人どうしてあんなことするんだろう、訳わからないなあ」って(笑)。でもこの「わからない」という感じが「時」ということなんだよなって思ったんですよね。
田中:私もまったく同じ意見です。高校の授業などでよく「昔の人も今の人と一緒だね」なんて言って共感しようとするけれど、あれも嘘で、その人の気持ちにはなれないはずなんですよ。わからないということがわからないと、入口が閉じられてしまって、とっても浅いところへ行ってしまう。
新井:そこを歴史という事実関係だけで学ぶのはなかなか難しくて、歌舞伎や古文に触れたりすることで、初めてどうしようもない違和感とか、つまらなさ、わからなさが感じられるんじゃないか……。
田中:そうですね。やはりそういった機会がないと、わからなさに直面して絶望に向き合う機会を、永遠に失ってしまいます。

わからなさに向き合って「読み解く力」

新井:大学で身に付けたい力というのは、文系でも理系でも「読み解く力」だと思うんですね。理系の場合なら大規模なデータや自然現象などを見て、その中から関係性を読み解いていって、何かの式にする。ただそこからもれてしまうものがある。それを扱うのが本来文系のお仕事なんじゃないかな、と私は感じているんです。
田中:もれていくものがあるとしたら、それを支える下力のようなものが要るはずなんですけれども。ところが、そういう捉まえられないものは感情であるとかいう話に、すぐになってしまう。
新井:あ、感情じゃないのに。
田中:感情じゃないんですよ。人の思いだとか感性だとか、そんなものはね、本当は「ない」と言ってもいいくらい。
新井:21世紀的な問題意識で文系がするべき仕事って、何でしょうか?
田中:そうですね、それは言葉にならない、というのがある種の回答かもしれません。たとえば『ソラリスの陽のもとに(スタニスワフ・レム著、1961)』というSF小説があって、人工生命体の「海」というものが惑星ソラリスを動かしているんですが、その「海」がどういうものなのかわからないんですね。どうも人間と交信したいらしいのだけれども、仕方が全く違うために、結局「わからない」で、終わっちゃう。
新井:あ、数理論理学に「ゲーデルの不完全性定理(クルト・ゲーデル、1931)」というのがあるんですが、これがまさに書いても書いてもわかり合えないという話なんです。私たちが宇宙人に、自然数ってこういうものなんだよって言うと、宇宙人は「ああなるほど」って言いながら全然違うものをイメージしてる(笑)。すると結局論理ではわかり合えない。言葉も論理の一部だから、言葉でもわかり合えない。

文系ならではのブレークスルー

田中:数学の場合、ツールといったら何なのでしょうか?
新井:数学に限らず、科学の中のたとえば脳科学が何かを解明したというとき、彼らは何らかデータを集めて数理的に答えを導いていますよね? そうすると脳科学に特有の手法があるわけではなくて、結局数学に落とし込まざるを得ない。数学がそのようなデータを読み解くには、大別して2つの方法があるんです。1つは、現在とごく近い未来の間の関係を読み解くことで、未来も過去も一斉に読み解いてしまおうとする微分方程式。もう1つは、たくさんあるデータにフィットするように線をひく統計の方法。微分方程式は理論を式にし、統計は経験を式にするんですね。
田中:古典文学でも、何か根拠がないと証明したことにならないので、たとえば写本のここに書いてあるといった物証を出してくるしかないんですね。ただ写本には写し間違いもあるし、物証が本当に根拠があるのかあやしいこともあるので、そういう場合は、ちょうど犯罪の推理と同じように、状況証拠を思いっきり集めます。それによって、これでしかありえないだろうというものを出すしかないだろうと思うんです。─これは、さっきの「線を引く」に似ていますか?
新井:いや、お話をうかがっていると、論理や統計とはまた別種の、人間ならではの良質な解釈があるように感じます。むしろ解釈を含んだ良質な読み解きこそが、文系ならではの手法なのではないでしょうか?
田中:具体的な例で言いますと「悪女」論という本を出した時に、何らかのテーマにまつわるさまざまな言説を、時代の流れに沿って現代までずっと追っていくというやり方を身に付けた、と思いました。私はよく食べ物にたとえてしまうんですが、たまねぎの皮もらっきょうも剥いたら芯はない。芯がないのならば、結局重要なのは、その重なり一枚一枚なんだということなんです。そしてまたこのような言説史の手法そのものも、時につれて変わっていくでしょう。そこで私も悪い部品を交換したりしながら、ちょっとずつ自分を刷新していきたいと思っています。

文:田中貴子・新井紀子・池谷瑠絵 写真:水谷充 取材日:2010/07/21