たとえば、私は『他人の自伝──ポストコロニアル文学を読む』でラシュディ(Sir Salman Rushdie, 1947-)の『悪魔の詩』を採り上げていますが、この作品を読んだ人はおそらく、英文学者でも実際にはほとんどいないのではないでしょうか(笑)。こういう作品は実は他にもあって、ジョイス(James A. A. Joyce, 1882-1941)の小説『フィネガンズ・ウェイク』もそうだし、ガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)の実験的な詩や小説などもそうでしょう。かつては、これらをきちんと読むのが正しいことであり、読むことを職業とする英文学者がいて、さらに英文学者は偉いという社会的なステータスまで与えられていた──しかし、今、こういったことはもう不可能じゃないか、という問題意識があります。丁寧な読みは大切だけれども、ではそもそも「読む」とは何なのかを問い直さざるを得ない、そんな時期に来ているのではないか、と。
そして、明晰に実証できる価値が重んじられる世の傾向の中で、文学は伝統的にはむしろ、個人の力を信じるというスタンスから来ています。先駆的なポストコロニアル理論家であるサイード(Edward W. Said, 1935-2003)は、まさしく世界を敵に回しても私は正義のために戦うという態度を示していて、実際、サイードがある時期、精力的に世界へ発信したことによって、イラク戦争を止めるには至らなかったけれども、ある程度の世論を形成していきました。私の教え子が将来、大企業の重役になって世界を動かす権力を得る、なんてことは十分あり得る話ですから(笑)、英文学を教えることによって、何かしら意味のある仕事ができるんじゃないか、と考えています。