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研究の壁を越えたとき VI

英語で書く・読むこと、の先端で。

一橋大学
中井亜佐子教授

先生、英文学って何ですか?─そんな直截な質問にも答えてくださったのは、一橋大学大学院言語社会研究科の中井亜佐子教授だ。90年代、文学理論をリードした英国Oxford大学で英文学の研究者となり、当時日本ではあまり研究されていなかった「ポストコロニアル文学」への取り組みで、平成20年度には、第5回日本学術振興会賞を受賞した。東京・国立にある一橋大学で、お話をうかがった。

日本の研究者を考えるふたつのサーベイ

私の専門は、英文学の中でも、19世紀末から20世紀を経て現代に至るまでの、英語で書かれた文学です。中でも19世紀から20世紀への転換期に活躍したジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad, 1857-1924)という、ポーランド人で、後半生英語で小説を書くようになった作家の研究から始めました。Oxford大学の英文学は、当時は歴史学や人類学などとの共同研究が盛んで、またマルクス主義批評の流れのテリー・イーグルトン氏がいましたし、ポストコロニアル批評の第一人者であったロバート・ヤング氏にも指導していただきました。博士論文では研究対象を60〜70年代のアフリカ出身の英語作家を含むイギリス植民地時代の英文学へと拡げ、さらにそれ以後の新しい英文学に至る系譜図を描きました。

なぜアフリカなのか?─たとえばナイジェリア出身のチヌア・アチェベ(Chinua Achebe, 1930-)という、小説を書くことが同時に啓蒙や教育でもあるという活動をしている、著名な作家がいます。世界のある地域では、小説という媒体に、現代の日本やアフリカにはない、大きな意味がある。20世紀後半に英語の文学を研究するなら、やはりそのような作品は見逃せないのです。もう一つには、私は日本から来たわけですから、やはり西欧人ではない「独自の」視点を打ち出さなくてはいけない、というプレッシャーもありました。博士論文を書いている時は、たとえば植民地の行政官が当時の雑誌に書いた特徴のないエッセイのような資料を「ああ、現代ではもう私しか読まないだろう」と思いながら読み、「こんなことをしていたら、後は研究者になるしかない」と思いつめました(笑)。

有名なのに誰も読まない作品!?

ポスト構造主義以降の文学研究は、対象としての文学作品があってそれを解読しようというよりは、デリダ(Jacques Derrida,1930-2004)も示したように、文学とはむしろテクストを読むための方法論なのだ、という考えに立っています。たとえそれが新聞記事であっても、一見「事実」を書いてあるだけのように見えても、そこには「物語」が語られているのだと深読みしたり、文中に比喩が用いられていればその背後にどんな心理が隠れているかなどを分析したりしながら、私たち研究者はテクストに対して必ず「解釈する姿勢」で臨むということです。そのような丁寧な読みの実践を教える場が大学だと言えるでしょうし、これを継承していくのが私たちの課題であるのですが。でも、同時に、ポスト構造主義の思想は、いまや学校で教えるための教科書にまとめられ、便利なツールと化し、完全に制度化してしまっているのではないか?─という問題も気になります。

たとえば、私は『他人の自伝─ポストコロニアル文学を読む』でラシュディ(Sir Salman Rushdie, 1947-)の『悪魔の詩』を採り上げていますが、この作品を読んだ人はおそらく、英文学者でも実際にはほとんどいないのではないでしょうか(笑)。こういう作品は実は他にもあって、ジョイス(James A. A. Joyce, 1882-1941)の小説『フィネガンズ・ウェイク』もそうだし、ガートルード・スタイン(Gertrude Stein, 1874-1946)の実験的な詩や小説などもそうでしょう。かつては、これらをきちんと読むのが正しいことであり、読むことを職業とする英文学者がいて、さらに英文学者は偉いという社会的なステータスまで与えられていた─しかし、今、こういったことはもう不可能じゃないか、という問題意識があります。丁寧な読みは大切だけれども、ではそもそも「読む」とは何なのかを問い直さざるを得ない、そんな時期に来ているのではないか、と。

今、英文学に何ができるか

また批評理論が読むためのツールだとしたら、対象としての文学テクストは何なのか?─と考えていくと、実はもちろん、文学も思想なんですよね。ですから批評理論と文学テクストを分けるのではなく、むしろ思想というまとめた形で研究したいと、私自身は考えています。「ポストコロニアル」はもうピークを過ぎているようにも言われますが、今こそ、その思想の源流へと遡ってみたい。

そして、明晰に実証できる価値が重んじられる世の傾向の中で、文学は伝統的にはむしろ、個人の力を信じるというスタンスから来ています。先駆的なポストコロニアル理論家であるサイード(Edward W. Said, 1935-2003)は、まさしく世界を敵に回しても私は正義のために戦うという態度を示していて、実際、サイードがある時期、精力的に世界へ発信したことによって、イラク戦争を止めるには至らなかったけれども、ある程度の世論を形成していきました。私の教え子が将来、大企業の重役になって世界を動かす権力を得る、なんてことは十分あり得る話ですから(笑)、英文学を教えることによって、何かしら意味のある仕事ができるんじゃないか、と考えています。

文:中井亜佐子・池谷瑠絵 写真:水谷充 取材日:2010/10/12