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変化をひらくドアIII

パイオニアになろう!

東京大学大学院薬学系研究科
池谷裕二 准教授

私たちの脳は今、どこまでわかっているんだろう?─そこで今回お聞きしたのは、『海馬』など一般向けの著作活動でも注目を集める、東京大学 大学院薬学系研究科の池谷裕二准教授だ。脳の中身をのぞく、神経回路の大規模なイメージング技術をはじめ、脳科学の先端で活躍する池谷准教授の研究者としての素顔を、東京・本郷の研究室に訪ねた。

どっちが大事とか言ってるからダメなんだ

脳の作動原理を明らかにしたい、というのが私の研究です。これは現在「神経科学」という、その名のとおり神経を研究する学問というふうに呼ばれているんですが、実際には神経細胞ニューロン)は、脳の構成成分のごく一部に過ぎません。たとえば人の場合、神経細胞よりグリア細胞のほうが多くて、その比率がおよそ1対9ぐらい。しかも脳の中には、もちろん血管だってありますから、神経だけをやっていても、きっと脳のことはわからないですよね? ちなみにグリア対神経細胞の比はマウスでは1対1ぐらいで、ヒトなどの高等動物になればなるほどグリア細胞の数が多いんですね。

私はもともと神経細胞の活動を1,000、10,000と同時に記録するのが得意で、世界的に見てもトップレベルの技術を持っています。そこで、このテクニックをグリア細胞に応用して見てみたら、グリア細胞も活発に活動していたんですよ。ただ活動パターンが違う。神経細胞は突起を遠くまで伸ばして、ミリ秒オーダーの速さで電気がパッと伝わります。グリア細胞は、近くの細胞同志でネットワークを作って、これが全体へつながっている。速度もゆっくりしていて10秒以上かけて伝わっていきます。だからグリアの研究者はこう言うんです─ニューロンは遠くまで行ける高速道路に相当する。グリア細胞はローカルな道路だ。日常生活するのにどっちが重要ですか?─このたとえ、言い得て妙!……けど、僕は両方必要だと思うんですよね(笑)。

血管も今、始めているところです。たとえば神経細胞は直接血管には接していなくて、グリア細胞を介して血管と接していることなどがわかってきています。近年隆盛している「MRI(核磁気共鳴画像法)」は血流を見る装置です。つまり、血管と接しているグリアの活動を見ていることにもなりますね。そこで、これまでに得られてきた電気活動とMRIのデータを比べてみると、必ずしも一致しない。となると、一方だけ見ていてもダメで、つまり脳は神経とグリアの二重平行処理を行っていると考えられるんですよ。しかも両者は独立ではなくて、相互にコミュニケーションしている。脳の作動原理を捉えようという時に、私は、このように「メゾスコピック(中間視点)」な視点から、広くネットワークを見ていこう、と考えています。

現代人の脳は「脳をわかる」ようにはできていない

私たちは、いわば脳の中にいて、そして世界を眺めている。たとえば今見えている風景だけで、銀河系がどうなっているのかを知ることはできないし、あるいはタンパク質がどういう形かなんてわからないでしょう? にもかかわらず、分子を分解したら原子になった、と聞くと私たちはわかったような気がしますね。じゃあ、そもそも「わかる」の定義って何だろう?─ここが重要なのですが、わかるという現象は、すべて脳の錯覚なんですよ。わかったというのはたぶん、わかったと早とちりして、理解したという満足感が得られている状態にすぎないんです。逆に言うと、どういう条件さえ揃えば、脳は「わかった」と勘違いしてくれるんだろう?

ひとつには、私たちは分解するとわかった気持ちになりますね。車を分解してこれがエンジン、これがラジエター、とパーツを知ると、こういうしくみで走るんだ、とわかったと感じる。もうひとつには、準備する心が必要です。小学校で最初に分数の割り算を習ったときに「4分の3で割る」と言われるとなかなかわからない。まったく新しいものに出会うと、私たちはどうしても「わからない」と感じてしまう。でも何度も分数で割るということに親しんでいくうちに、だんだんわかってきます。

そういう癖のある私たちの脳で、どこまで「脳の本当の姿」を捉えることができるんだろうか? 私たちは、脳は神経細胞やグリア細胞からできているとか、この分子をつぶして調べてみたらこう変わるんだ、とか言われるとわかった気になる。つまり「分解」という方向へ進んできているんですけれども、私がずっと思っているのは、神経細胞1個をどんなに精密に記述できても、2個3個と集まって回路になったら、まったく挙動が変わるんですよ。だから分解しないで、そのまま、脳はこんなふうに動いてますよってお見せするしかない。ところが脳の性質上、人は、私を含めて、それでは「わかった」と思えない。つまり、そもそも脳の作動原理は、脳の癖としての「わかる」必要条件に合致したつくりになっていない!─でもね、人の「わかった」という悪癖を……変えればいいんですよ。

神経・グリア・血管の“三位一体”で

私たちは小さい時から、分解すればわかるという教育をずっと受けてきました。要するに1960年あたりに構造主義という考え方が出てきて以来、いわば“生まれながらにして構造主義”的な環境で、それを当たり前のようにして育ってきたんだろうと思うんです。だから「わかる」を変えるには、教育レベルから変える必要がある。一方で、研究によって脳の作動システムがわかってくると、私たちの自然界を理解するしかたも変わってくると思うんですね。「自然は芸術を模倣する」と言ったのはオスカー・ワイルド(Oscar Wilde "The Decay of Lying", 1889)ですが、ふつうなら美しい自然を絵に描く、写生すると考える。ところが人は写真や絵を見て初めて、なんていい風景なんだろうって逆に発見しているんだと。この意味で、近い将来、脳科学やシミュレーションなどの成果が人間や社会について新しい解釈をもたらす可能性があって、新規な哲学ブームを起こせるんじゃないかと考えています。

そして私はこの「わかるとは何か?」も包括して、脳を理解したい。神経・グリア・血管のめちゃくちゃ複雑なネットワークを、その一端でも解明して、新しい学問分野のきっかけを作りたい。私、いま薬理学っていう研究室にいるんですけど、この「○○学」というのがまさに先人達の背中を見て走っているということですよね? 私はそれとは少し違うところを走っているから、このまま突っ走って、最後には我が道を振り返って、そこに「○○学」って名付けたい、つまりパイオニア的な仕事がしたいと思っています。また具体的な目標として、現在参加させていただいている最先端・次世代研究開発支援プログラムもその一環です。たとえば寝たきりの患者さんの約半分が脳血管の病気なんですね。そこで神経・グリア・血管の三因子相互作用モデルを通じて、脳疾患の新しい治療法・予防法を確立し、医療に貢献したいと考えています。