家族の食卓を定点観測ポイントに選び、18年にわたる極めて詳細な記録・分析を行ってきた岩村暢子氏。食卓と家族にどんな変化が起こってきたのか、調査に裏づけられた歴史的洞察を描く著作でも知られ、最新刊『日本人には二種類いる』では自身の調査データを使わず、公的なオープンデータだけでその変化を描いた。社会調査が定量的方法へと決定的な舵を切る70年代後半から80年代の大学で心理学を学び、以来、対象の本質に迫るために編み出した独自の方法で「定性調査」にこだわる。「この現実をいま調査せずして、いつ調査するのか?」──情熱に導かれた、その軌跡をおうかがいした。
家族の食卓の調査をしようと思ったのは、広告会社時代、全自動洗濯機の新商品を担当したのがきっかけでした。メーカーが掲げる「自由」というコンセプトワードを生活者がどう受け止めるかを調べたら、ある年代以上では「自分がやりたいことを、誰にも妨げられず、好きにできること」という人が多かったが、それより下の人々には「誰かが全部やってくれて自分は何もしなくていいこと」という答えが多かった。その境が1960年というポイントだったんですね。30〜35歳といった区切りを用いて分析していたら決して見えなかった、言葉の意味の違いに気付きました。
そこから河出書房新社の『家庭史年表』を始め、各種年表や統計年鑑などを読み込んで確認し、人の成育史を紡いでいきました。たとえば……初めて男女共学の義務教育を受け、新憲法を習った第一世代で、恋愛結婚をし、子供を病院で出産し、子供を育児書で育て始めた人々。家電が普及する子供中心家庭で「過保護」「教育ママ」と呼ばれ始めた人々……そんな親世代に育てられた新しい子供達が、大人になっていたのです。近著の『日本人には二種類いる』は、そんな1960年以降生まれを境に日本人を区分する論考ですが、私の頭の中には当初からこの考えがあったんです。
食卓と家族の調査は、対象者の言葉の意味を取り違えないためにもこの年表を頭の中に叩き込んで行ったものです。調査開始から5年分のデータをまとめたのが『変わる家族 変わる食卓-真実に破壊されるマーケティング常識』で、彼女たちの実の母親を全国に探し求めて調べたのが『「親の顔が見てみたい!」調査』。さらに、この親子孫が三代で過ごすお正月と横に繋がるクリスマスの過ごし方を5年越しで詳細に調べた結果が『普通の家族がいちばん怖いー徹底調査!破滅する日本の食卓』です。この調査では、例えばお正月に家族の写真入り年賀状を出す家族はどんなお節を食べる傾向があるか、クリスマスに電飾をする家庭はどんなケーキを食べて、正月はどう過ごすか、など細かくアフターコーディングした定量集計も加えて考察しました。
まず1ステップ目では、主婦の得意料理や食事作りの留意点、家族一人一人の好物や趣味、健康状態、実家との関係まで10ページくらいのアンケートに答えてもらいます。記入したら必ず回収してから2ステップ目に移ります。2ステップ目では朝・昼・晩の食卓写真と詳細な日記を一週間分記録してもらいます。対象となる期間のレシートも含め、食材の入手経路、メニューの決定理由や作り方、家族の誰がどこでどんなふうに食べたかまで書いてもらうんです。写真は必ずレンズ付きフィルムで撮影し、すべて未現像のまま提出してもらいます。
ここでアンケート、日記、写真を付き合わせると辻褄の合わないところが……食事の留意点は「手作り重視」なのに写真に写っているのは簡便食品ばかりだとか、「野菜中心の食事を心がけている」と書いた人が、野菜はほとんど出していない…など、実にさまざまな不明点が出てきます。そこで3ステップ目では、それらを読み込み、検討して、調査対象者一人一人に合わせたまったく別のインタビューフローを作成します。心理的なトリックも交えながら、実際に行った事実に即して日常の本音を聞き出すために、とことん洗練させたインタビューフローです。
調査対象者はインタビュー時に初めて自分の食卓写真を見て、「これ、私のですか?」と軽いショックを受けることがあります。「私、ひどいことしてますねぇ」という振り返りに続いて「この週は特別だったんで」といった理由語りが続く。一般に、調査を始めた最初の2、3日はがんばって準備するため、それなりに整った食事が続くんですね。調査に息切れし始めた4日目あたりから、日常が姿を現して来ます。途中で病気になったという人のデータも重要です。そこにも今の家族のリアルな姿が見える。そして調査も終盤にかかってくると、いつもと違うテーブルが写っていたりします。──実家に助けを求めたり、外食になったりする、というわけですね。そういった事実をあげつらうのではなく、その背景や意識をひとつひとつ確認し、家族の関係や価値観の変化をみていくのが3ステップ目です。インタビューでは、沈黙や笑い方、発言の順番や言い間違いも、すべて重要なデータとして丸ごと記録します。なぜなら、要約筆記をして発言の「論旨」を得たいのではなく、その「本当の意味」や「心」を慎重に受け止めたいからです。
1990年代には、マーケティングの世界で「個化する社会」というテーマがよく語られました。そこで、みんな単身者研究をやった。しかし個化する社会を捉えたかったら、いちばん個化しにくい所でなぜ見ないんでしょう? 最も個化しそうもない家庭の中で家族がどのくらい個化しているかを調べれば、問題の本質が見えると思って、私は家族に拘りました。家族はいま、よい意味でも悪い意味でも「自立的」になってきています。常に家族全体を見渡してその食を賄うことを使命とするような昔の「お母さん」は見られない。子供がかなり小さいうちから親も子も自律的で、それぞれが自己実現を目指すようになってきている。それを可能とするサービスやモノも整ってきていますから、お互いのペースや気分を大切にしあうのは当たり前です。家族は毎日一緒に食卓を囲んで同じものを食べるより、レジャーやイベントを共に楽しめることの方が、大事かもしれない。今では家族の食事イベントもそこに含まれる、という感覚でしょうか。
私の調査は、対象者が後から書き直したり、写真を撮り直したりできないようになっています。見方によっては意地が悪い。しかし、それは真実を追求するためなんです。「自分がその立場だったらやるだろう、やるかもしれない」という辻褄合わせの姿を見ても仕方ない。本当の姿を見なければ、現状の問題点を語ったり、未来への対策や施策を講じることもできないでしょう。対象者に渡すインスタントカメラは広角で、本人が意図しないところまで写ってしまうのも、思いがけない情報を私に与えてくれます。テーブルの周りのおもちゃやレジ袋、茶碗や皿の横に見えるヘアドライヤーや子供の宿題、作りかけの手芸品……など、その一つ一つも卓上の食べ物以上に重要な何かを表しているものです。それらをどこまで対象として捉え得るか──研究には、調査の通念や常識に捉われない柔軟さも欠かせません。
しかしながらこの調査方法をどのように継承していけばいいのかは、大きな問題です。世はビッグデータ時代、「なぜエクセルに入力しないの?」とよく言われます。しかし、例えばこの写真のどこを入力データとするのでしょう……スプーンと箸の妙な置き方、フライにソースをかけ過ぎていること、子供の席が昨日と違うこと、パンが半分に切ってあること、食パンにお新香?……その全部を入力することは不可能だし、バラバラに分解して入力しては事実が消えてしまう。物事の多様な網の目のような重層的な繋がりを、その時代と文化を共有する人間の目で理解していくしかありません。もちろん、この方法は手間がかかりすぎることはよく知っています。でも本当の事を知りたかったら、調査者が自分の手間を惜しんではいけない。そして、もし1年でも欠けたり、面倒な所を作業と捉えて外注してしまうと、途端にわからなくなってしまう。私はこれまでの経験からそう考えています。