2015年4月から国立研究開発法人となった情報通信研究機構内にある、未来ICT研究所 量子ICT研究室。室長を務める佐々木雅英博士は、量子鍵配送(QKD, quantum key distribution)の研究開発を中心に、長年にわたり次世代の通信技術に関わる研究グループを率いてきた。量子鍵配送とは、1984年のベネット(Charles Bennett)とブラサール(Gilles Brassard)に由来する「BB84」をはじめ、理論的に絶対安全であることが証明された鍵配送方式である。2013年のD-Waveマシン報道以来世界的な注目を集めている量子情報という分野のなかでも、最も早く実現化が期待されてきた量子通信技術だ。実際の回線を利用したフィールド実験を経て、いよいよ実現化のための最終的なテストが進められつつある東京・小金井の研究室を訪ねた。
われわれの研究機構では、情報通信技術に関わる基礎から応用までの研究開発を行っています。情報通信は原理的に電磁波をいかに利用するかという課題であることから、限界を突き詰めて行くと電磁波を支配する究極の原理としての量子力学を理解することが、どうしても前提となります。量子力学はまさに物理の世界ですから、われわれは物理学研究の流れの中でこの課題に取り組んできました。
しかし、一般に量子力学的な現象を実験で再現することは難しいため、大学や研究所の特別な実験室で研究者や学生だけが扱えるような装置で研究しているだけでは、世の中の一般の技術者やその他の人々がアクセスできるような技術には育ちません。量子力学を使った技術を世の中のみんなに使ってもらえるようにするには、手にとってボタンを押せばちゃんと動いて、今までなかった機能を実現できるところまで行かなければならない。国立研究開発法人として僕らのグループの役割は、大学等の基礎研究と、企業などが人々に使ってもらえるような実際のかたちにするまでの間の橋渡しだと考えています。
実際、通信の技術革新は、日々高まる大容量化と多様化のニーズを受けて、まさに喫緊の課題です。これからの社会を担う通信インフラを考えるならば、安心安全に関わる技術を脆弱なままにして、多様化するサービスを積んでいくわけにはいきません。これに応えるためのわれわれの技術は、原理的にこれまでとは質の異なる高い安全性に大きな特徴を持っています。現在知られている、どんなコンピュータでも絶対破られない暗号方式は「ワンタイムパッド」です。これは送りたいデータと同じ長さの乱数列を用意して、送信者・受信者にそれぞれ手渡し、これを暗号鍵として使用し、1回使ったら2度と使わずに捨てる方式です。この方式は、暗号の究極的な安全性への答えとなるものです。ただ、鍵配送は通常の暗号では安全に行えないので、「人手で渡す」という形で行われてきました。これには労力がかかるので、これまでは労力に見合う重要通信にだけ用いられてきました。しかしICTの発達した現在において、「人手で渡す」という部分が大問題です。たとえば東京オリンピックで膨大な数の人々が一気に通信する時や、災害時などに通信量が集中する場合に、重要な通信を行う送信者・受信者に確実に鍵を渡すにはどうしたらよいか?──量子という自然の法則を利用することによって、この「鍵配送」を人手によらず光を使って実現できるのです。いわゆる、量子鍵配送です。
現在インターネットで標準的に使われているRSA暗号は、なんと1970年代に登場した暗号でありながら、更新しながら何十年も継続的に使用され、この上にインフラも各種ネットワークサービスも構築されています。この例は、通信の安全性は、歴史の試練を経なければ信頼を獲得できないんだということを、われわれに教えてくれます。2010年、われわれは電機メーカー4社と合同で小金井と大手町を4ルートで結ぶ「東京QKDネットワーク」を構築し、量子鍵配送によって守られたテレビ会議の実演を行いました。続いて首都圏で実際の光ケーブル回線を使ったネットワークを3年以上連続稼働し、鍵の生成レート向上、盗聴の検出、通信速度、地震・台風などの自然災害、停電などへの耐久性などを実証してきました。
今年の後半からは、いよいよユーザとの共同検証というフェーズに入ります。高い機密性が必要とされる分野で実際に使われている通信システムと一体化させた装置が、既に稼動を開始しました。これは高速の暗号通信を行う既存の製品に、鍵配送を行う量子鍵配送装置をアドオンしたもので、比較的コンパクトな外観も特徴です。将来的には街ぐるみ・地域ぐるみのスマート・コミュニティや、ユビキタスを活用した自動走行システムなどのインフラにも導入されていく可能性があります。
量子鍵配送といえば現在、特に欧米のベンチャーや中国などで、大陸規模での広域ネットワーク構築に向けた開発競争が活発です。しかし、安心安全に関わる技術ですから、徹底的な検証を積んで歴史の試練に耐えられるよう慎重には慎重を期して装置の信頼性を向上させておく必要があります。品質保証と安全性の評価技術も極めて重要ですが、今のところ誰も通信品質や実際の安全性を客観的に保証できる体制にはなっていません。そこでわれわれは標準化へ向けて、世界の最先端の技術動向を見据えながら、世界に選ばれる”メイド・イン・ジャパン”の品質保証基盤を構築していこうと考えています。
ところで世界地図を見ると、通信環境が整備されているのは北米、ヨーロッパ、日本、インド、韓国、オーストラリア東部など、地球上のごく一部のエリアであって、世界にはまだまだインターネット・サービスが提供されていない人々が数多くいます。情報にアクセスする機会を広く提供することによって、戦争、テロ、貧困といった世界的な諸問題の解決につなげ、新しいマーケットを見出していこうという具体的な動きとして、世界的なIT企業を中心に「コネクティビティ(接続性)」を拡大するプロジェクトが急速に進められています。
この接続性は、これまで都市を結んできたのとはまったく違った技術になるはずであり、「ビーミング(beaming)」と呼ばれています。つまり光ファイバーなどを張り巡らすのではなく、バルーンや無人航空機などを飛ばして、空から一気に実現しようという点に特徴があるわけです。また電波に比べて規制が少ないレーザーをうまく使えば、通信の可能性も大きく広がります。国内でも、実際に地方自治体などで、災害などの有事における基幹回線の確保のために、レーザーによるビル間通信などの応用が進められつつあります。
われわれも現在、研究棟の屋上に実験施設を設けてレーザー送受信の実験と光子の大気伝搬の超高精度解析を実施しています。いつも実験をやっていて実感するのは、大気は5分単位でものすごく変動し、ケーブル内の環境とはまったく違うんだということです。また接続性の実現には、安全性の実現も伴わなくてはならないでしょう。このような課題に立ち向かうためには量子を活用した通信技術が、おそらく役立つに違いありません。まだまだ未知の要素が多い環境で新しい通信を開拓しようという時には、量子力学がまず、原理的な限界を明らかにしてくれるはずです。人類はどこまで行けるのか?──量子力学はその道しるべなんですね。