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変化をひらくドアXII

新しい読みを、ひらこうよ。

立正大学
藤井貞和 教授

約束の夕刻、授業を終えた学生たちが、活気ある様子で往き来する立正大学文学部に、藤井貞和教授を訪ねた。日本の古典語にわけいり、80年代の構造主義から今世紀の言語情報にかかわる理論まで、さまざまな方法的挑戦に取り組んできた藤井教授。また現代詩の書き手として、湾岸戦争に際しては、作品を通してことばで向き合った。茶色っぽい背の書物が詰まった研究室の本棚は、近寄ってみると著書名のアイウエオ順に並べられ、手書きの添えられたノートもある。生まれたことばも、生まれそうなまま生まれずに終わったことばも等しく在るかのような時空にて、お話をうかがった。

研究と教育と日常にわたる、あいまいな領域

私は研究をだいたい10年単位で考えているんですが、ここ10年のまとめとして、最近『日本語と時間』という文法書を出したんです。私はこれまでうた物語をそれぞれにやってきたんですけれども、今回、このふたつが一緒の視野にはいってくるテーマとして文法事項というものを採り上げて、少し新しい分類で解きほぐしてみたいなあと。「時間・推量・人称・形容」という項目のうち、この本ではまず「時間」を採り上げて、いま大学の講義でも教科書的に使っているところです。

この三角錐は、古典語にある「けむ」「けり」「き」といった助動詞の相関を示す「krsm四面体」モデルです。kが過去あるいは時間、rが現在、mが推量、もうひとつのsが形容詞で、これらを結ぶ稜線とそれから面のところにも中間的な語彙があり得ると考えています。みんなの脳の中にもこういうのがひとつずつあるとすると、これをくるくる回すことで会話したり、コミュニケーションが成立したりしているのではないだろうか─そんなことを考えてみたりしています。国文学の講義というと「観賞」「概説」などがありますが、それらとは違うところで何かやってみようという提案を、今続けているところですね。

しかしこのような提案の一方には、義務教育や高等学校には学校文法というのがあって、このような教育の現場と切り離すことはできません。またことばは日常生活のなかで生きているわけですから、これと研究として言語を考えるということのあいだには、どうもあいまいな領域があるように思われます。日常生活、教育、そして研究という、また三角形ですけれども、ことばを考えるときには、どうしてもこの3つを行ったり来たり、やはりぐるぐる回っているのではないか。これは意外と難しい問題で、研究だけを独立させるよりも、むしろ現実とわたりあうことを研究課題にしてしまおう、という思いはありますね。

現代語の「た」は過重労働を堪えている

なぜ古典語を研究するのかというと、ひとつには古典語を理解して慣れ親しむことで、現代人にはわからなくなってしまった部分を回復する意味があると言えるでしょう。われわれ現代人が使っている日本語は、一千年間ほとんど変わらないと考えることができ、その頃から使われていることばや思考をたくさん、そのまま残しています。一千年前には使っていたわけだから、現代人も表現するときにこまかいニュアンスを含めてみたりしているかもしれない。

たとえば、さきほどの三角錐に書かれていた古典語の過去6種類の助動詞は、現代語では「た」ひとつになってしまっているんですね。現在の状態も「た」ならば、過去からずっと続いていて今ある状態も「た」ですから、今われわれが使っている「た」ということばは本当に過重労働と言いますか、あふれそうな感じにいろんなものが詰まっています。それを少し楽にするために、伝え合うときに、これは昨日の「た」ですねということを了解し合うような何かを一緒に伝えていることがある。すると言語の外側にもうひとつ、これに張り付いて言語を支えている、ファンクションキーみたいなものを考えることができますね。

また「たり」と「り」については、現在では古典文法を読むことができる人も、区別ができなくなっているんです。そこでふつうは一緒にして論じられるんですけれども、ふたつあるということは、やはり一千年前は分かれていたと考えられます。そこで、確かに違う助動詞のはずだ─と、こう、まず信じるわけですね。自分の感覚ではもうわからないわけですから、「たり」と「り」の区別をいわば外から持ち込もうと。あとは練習で、自分のなかでふたつの違いを獲得していきます。このようなところにも研究があって、下手すると現代人の読みでどんどん読んでしまうところを、待てよ、待てよと、ストップをかけるんですね(笑)。

詩を書き続けるということ

また現在を考えるうえでは、どうしても東日本大震災のことがあります。当大学でも入学式が遅れたり、授業開始が遅れたりしました。5月から始まった授業では、講義・演習を全部使って、学生諸君に読んで欲しい優れた文章や片々たる記事を採り上げました。というのも、震災の記録は、古典のなかにもたくさん出てくるんですね。それから3.11という体験を記録しなければいけないということで、昨年の夏に私なりの記録として独吟千句をつくったり、一方で福島県内の詩の書き手たちの仕事を調べたりしました。自分の根底が揺り動かされたままで、それを研究でも、教育の現場でも考え続けるだろうと思いますね。80年代に女性研究にぶつかったときと似たような、自分のなかでがらがらと崩れるような思いがあります。

文学研究のあり方についても、このような何か底入れ感がある中で、とはいえ変化の兆しはある。若い人を中心に、どんどん新しい読みや新しいテクスト論が、進んでいけばいいんじゃないかなというもどかしい思いがすればするほど、今は、その変化の直前でとまっているように思います。また現代詩の世界でも、より広く文学や文化としてみても、百年単位で考えるとすれば、ちょうど1910年代にヨーロッパで詩の革命が起こって、アバンギャルドの時代にはいっていきましたね。それから百年にあたるのが2010年代─そろそろ変わる時代ではないでしょうか。みんなそっちへ行きましょうよ、と。