新井:どうしても物理や数学は、何か芯があるに違いないというふうに進んでしまうわけですけれども、世の中には芯がないものもある。するとアプローチも変わってきますね?
田中:私は本質主義者じゃないので、本質というものは、とりあえず何かに包んだり括弧に入れたりしないと語れないということがあります。その括弧に入れているということを重視しましょうということになる。それが私の今までの仕事だと思っているんです。そのたとえがたまねぎの皮なんですね。重なり合うことで形を保っている。芯がないということは、たまねぎの存在を否定することにはならないわけですよ。重なっていることが重要なんであって、その重なりようの総体を見てもいいし、一枚一枚を見てもいいという考え方ですね。また、たとえばなしをするというのは中世的な論理学というところがあって、たとえ話でしか語れないところがあるんですよ。ずばっと何かが出てくるわけではないし。
今、私たちがこうして話していることも、後の世から見れば、平成22年に誰々がこういうことを言ったという歴史の一枚になってしまう。なればまだいいほうで、歴史に埋没していってしまうことのほうがずっと多いわけですね。
明治、大正、昭和にかけて、特にドイツから入ってきた文献学というのが発達するのですが、この文献学は、いわば芯に真・善・理があると考える。これが国文学の中でも盛んになって、たとえば室町や江戸の写本を見ていくことによって、平安朝という芯に辿り着けるだろうし、それが目的なんだというふうに思ってきたわけなんです。ただこれは人の個性や才能とは関係なく、誰でもこつこつやっていれば辿り着くというものというふうに考えられていた。しかし最近になって、実際にそこへは辿り着けないんだと言われるようになってきたわけです。それならば、そこから派生していったものがいろいろあるわけだから、それぞれの個性からいろいろ観ていこうというふうに、写本研究が変わってきています。