実験からのフィードバックがない数学では、ふつうは、証明がきちっとできているかという点が問われます。では数学は、厳密であればそれだけでいいのかというと、むろんそうではなくて、審美性やその枠組みの発展性も重要となります。しかし厳密性だけを強く打ち出しすぎる傾向があるようにも思いますね。研究者の数がこれだけ多くなると、仕切りとしてやむを得ないのでしょうが。実際、物理や化学などの研究に接するようになってみると、やはり論文の書き方が違う。基本的には証明は必要なくて、その代わりシナリオを明確にしなければならないんです。
するとたとえば計算機を使って、われわれが見た数学の構造の一断面を計算機で描いてみて、全体像としては実はこんなかたちをしているだろうという提示のしかたができます。また全体像は厳密には証明できないけれども、端のほうに限ってならば証明できたりする。あるいは「特異点」というものに注目するという方法もよくあります。たとえば服のシワを見ると末端は複雑だけれども、シワの元のところに注目すると、そのあと拡がっていったらこうなる、というミニチュアがある。このミニチュアが特異点で、特異であるがゆえに普遍性が出て、構造がきれいなので、数学的に記述しやすいわけです。
ただし、ある実体を物理・化学的な意味で解明できても、数学の場合、最終的には実体は何か、物質は何かという部分は捨ててしまいます。「なんでそこを捨ててしまうの?」と思われるかもしれませんが、そういった状況や属性などを捨て去ってしまわないと汎用性が出ない。数学はいつも概念と概念をつなぐ、関係性を見るということに興味があるんです。
このように証明できる世界として作られてきた数学は、やはり良きにつけ悪しきにつけ、自己完結的です。発展はしているけれども、古典的にすでに出来上がったものが、たとえば50年後に崩れるといったことは、数学では起こらない。ですから数学というのは最も信頼できるわれわれの宝であって、これを活用していくのは大事なことだと思いますね。逆に──数学以外の他の諸科学では、自己完結しているということはありません。この意味では全部「途中」であって、明日になってみたら今日の仮説がみんな変わってしまうかもしれない。そういう生き生きとした世界なんだろうと思います。