手話の基本としてまず理解しておかなければならないのは、手話は日本語や英語と同じひとつの言語であって、ジェスチャーやパントマイムとは異なるものだという点です。この点を理解してもらうために、授業でも採り上げている課題として──ここにペットボトルがあります。ジェスチャーやパントマイムでそのことを伝えてください──というのがあります。これは、まあ、なんとかできますね。では、もし問題が、ペットボトルが箱の中に入っていて「箱の中にペットボトルがあるかもしれない」「箱の中にペットボトルがあるに違いない」「もし箱の中にペットボトルがあったら」「この箱の中に以前ペットボトルがありました」というようなことを伝えてくださいというものだったら?──とたんに難しくなって、なかなかうまくできませんね。しかし、手話は言語ですから、そんなことだってごく簡単に表現することができます。
それから、よく手話というと、何か「手話」というものが1つあって、それが世界中どこでも通じるかのような誤解もありますが、音声言語と同じように手話にもいろいろあります。アメリカ手話と日本手話は違います。ちなみに、日本で使われている手話には2種類あって、音声日本語とは異なる、独自の体系を持った「日本手話」と、文法は音声日本語と同じで単語だけが「手話単語」でできている「日本語対応手話」があるんです。
また、その地域で使われている音声言語と手話の間には、直接的な関係がないのがふつうです。たとえば、音声言語であるアメリカ英語とイギリス英語は、語彙やイントネーションなどにいくつかの相違はあるものの、ほとんどの場合、コミュニケーションが可能です。しかし、アメリカ手話とイギリス手話では体系が異なり、話がうまく通じません。
ところで、手話について比較的最近大きな注目を集めたのが、ニカラグアで新たな手話が自然発生したという話題です。長い間の軍事政権が終わり、革命政府が樹立され、おとなたちが耳の不自由な子どもたちのために、学校の中で意思表示したり、相手を理解したりできるようなシステムを作ろうとしたのですが、なかなかうまくいきませんでした。ところがその後、子どもたち自身を担い手として、人工的ではなく、自発的に新しい手話の体系が作り出されたんです。
また、世界中のさまざまな地域に存在するクレオールも、自然に作られた、新しい言語の体系です。さまざまな言語の話し手が混在する地域(たとえば、ハワイのプランテーション)で人々が一緒に生活していく間に、共通の言語らしきものができていきます。これをピジンと呼びます。でも、ピジンは日本語や英語や日本手話などの一人前の言語とは質の違う体系なのです。ところが、一世代たって次の世代になると、それが一人前の言語に生まれ変わります。それがクレオールと呼ばれるものです。人工的な言語作って、それを教え込もうとしてもうまくいかないのに、いわば脳が対応できる体系であれば、それが自然発生的に生まれ、世代を超えて伝播し、発達していく。新しい言語生まれたり、変化が起こったりします。そもそも、地球に現存する言語の数は数千もあるわけですから──言語とは、普遍性を持ちながらも多様性を許容する、なかなか太っ腹なしくみなんですね。私自身、このことに気づいたときはとても驚き、ことばというのはそういう素敵な世界を作り出しているのだと思いました。