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可能性を照らす道Ⅹ

ワイルド・アンド・ワイズで行こう。

京都大学
山極壽一 総長

欧米で長い間タブーであった”ヒトを扱う自然科学”として、今西錦司先生以来の豊かな伝統を持つ京都大学の霊長類研究。なかでも山極壽一教授は、そのほとんどが中央アフリカの紛争地帯に生息するゴリラに注目し、ゴリラ研究の第一人者として広く知られる。この分野では、ヒトゲノムの解明をはじめ遺伝子的な知識が整備されてきたことなどを背景に、欧米でもこれまでのタブーを脱してヒト、ゴリラ、チンパンジーをひとつの視野に捉え、人類学生物学社会学などさまざまな分野間の対話が拡がりつつあるという。2014年秋からは総長として京都大学を率いる山極教授に、これまでの取り組みや、将来へ向けた研究の意義、魅力などについておうかがいした。

社会関係は、食べ物を巡って作られる。

よく「われわれはゴリラといっしょ」と言っているのですが、なぜかというと、ゴリラ、オランウータン、チンパンジーと人間は「ヒト科」という1つのグループに属しているからなんですね。ヒト科、つまり「類人猿」は、キツネザルニホンザルといった「サル」とは大きく違うんです。遺伝的にいえば、類人猿と人間は、体を構成する遺伝子のたった2%しか違わない。したがってサルとゴリラの違いのほうが、ゴリラと人間の違いよりも大きいんです。生物学の法則によると、食物などの資源を巡って競合が起こるため、遺伝的に近縁な動物は同じ場所で暮らすことはできません。ところが、ゴリラとチンパンジーはなんと同じ場所に暮らしているんです。ゴリラとチンパンジーは性格や形質も違うし、社会性も違います。一方両方とも甘いフルーツが大好きで食べるものは一緒だし、両方とも木の上にベッドを作る。なんで2種類の類人猿が一緒にいられるのか?……このことはわれわれにとって長い間、謎でした。

というのも、人類もかつてアフリカ大陸で、複数種が同じ場所で共存していたことがわかっています。似たような条件で共存しているゴリラとチンパンジーのことを調べれば、過去の人類についての理解に役に立つはずですね? そう思って調べ始めたところ、ゴリラとチンパンジーは食べるものは一緒でも、食べ方が違うため共存できるということがわかりました。たとえば、チンパンジーは単独か数頭で、たいがいは朝方にやって来て、目当てのフルーツがなくなるまで連日やって来ます。一方ゴリラは、昼間に十数頭集団で一斉にやって来る。しかし転々と場所を渡り歩いていくため、繰り返しやって来ることはないんですね。しかもお互いが近距離で出逢ってしまった時には、相手が食べ終わるまで、お互いを尊重して待つという行動が観察されます。チンパンジーにとってゴリラは、今来ているけれどもすぐにいなくなってもうやって来ないことがわかっているし、ゴリラにとってチンパンジーはいつも少数だから、繰り返し来たとしてもたかが知れているということがわかっている。彼らの生活全体を覆う食べ方の違いがあるから、同じ資源を分け合えるんです。

彼らがこのような食べ方を開発したのは、もちろん競合する同種の仲間、異種の仲間がいたからですね。なかでも同種の仲間との共存が重要です。彼らの毎日毎日の関心事は、なんといっても食べ物なんですよ。食べ物は与えられるものではなく、自分で探して食べるものであり、集団で探して食べるか、個人で探して食べるか、どうやって分配するか、いつ、どこで、どれくらい食べるか……全部彼らの頭の中に入っていて、1人1人それに従って行動するし、社会関係もそのようにして作られます。過去の人類も、食べ物というモノを探しながら、おそらく同種の仲間との関係をいろいろと変えることによって社会環境を試していった。そのなかでわれわれの祖先は、全くゴリラともチンパンジーとも、かつて存在していた別の種の人類とも全然違う社会性を作り上げ、そのうちのいくつかの群れが森林を出て、サバンナへと進出を果たした。そこからアフリカを中心にヨーロッパアジアへ広がっていった、というのが真相ではないでしょうか。

二足歩行し始めたヒトの「食物大革命」

人間の進化をさかのぼると、チンパンジーとの共通祖先から分かれたのは700万年前、人間のが大きくなり始めたのは200万年前、そして現在の脳の大きさに達したのはわずか60万年前です。ではチンパンジーと同じサイズの脳であった500万年間、人間はいったい何をしていたんでしょうか?─それを解く鍵は直立二足歩行なんです。チンパンジーが森林と関連する場所で生きていたのに対して、人間はその時期、樹木の少ない場所まで進出し始めており、生息環境を大きく変えようとしていました。では脳が小さいまま、二足歩行でいったい何をしていたのか?─これも長らく研究者達の疑問だったんですが、糸口は、二足歩行が長距離をゆっくりとした速度で歩くのに適しているという発見にありました。二足歩行と同時に、自由に使えるようになった手で、人間は何を運んだんだろうか? おそらく初期の人類は食物を運んで、それを仲間のもとへ持って行って一緒に食べたのだと考えられています。チンパンジーは食物を分配するけれども、運ぶことはありません。しかもサバンナは森林と違って肉食獣が多い、危険な場所です。おそらく人間は安全な場所を作って食物を運んで食べ、集まって眠った。それをなんと500万年間もやっていたのです。

僕はこれを「食物革命」と呼んでいるんだけれども、最初の食物革命は食物を運ぶことであり、食物の種類ではなかったと思うんですね。脳が大きくなり始めるのは肉食と関係していて、260万年前に肉食を始めた証拠が出てきます。最初の道具は、死体から肉をはぎ取る食器として使われた石器であり、道具の使用とともに可能になったこの非常に栄養価の高い肉食によって、植物からは得られない過大なエネルギーを人間は脳の発達に回すことができるようになった。一方、他の霊長類を調べても、群れが大きくなれば、脳が大きくなることがわかっています。たとえば2人と付き合うならば、一人一人相手によって付き合い方を変えなくてはいけません。これが3人、10人……と増えるほど、集団の中で適切に行動するのは難しい作業になっていきます。おそらく、肉食と同時にこのような社会的な複雑さが増したんだろうと思うんですね。ではなぜ社会的複雑さが増さなければいけなかったのかというと、それは500万年間に生き延びるために人間が起こしたもう一つの革命、すなわち「多産」が起こったからです。

サバンナにいる肉食獣は、まず幼児を狙います。森林で暮らしていた時と比べて、きっと幼児死亡率が上がったことでしょう。死に絶えないために人間がとった手段は、子どもをたくさん産むことだったんです。人間の赤ちゃんは1、2歳で離乳してしまいますが、授乳期間というのは排卵が抑制されてメスが妊娠できない期間でもあることから、離乳は次の子どもを作る準備なんですね。オランウータンの授乳期間は約7年、チンパンジーは5年、ゴリラは4年と、現在の類人猿と比べても2年以下の人間は極端に短い。だから人間は著しく多産です。しかも人間は離乳から子どもに永久歯が生える6歳頃までの間、誰かがその時期の子どもが消化できるような特別な食物を取ってきて与えなければなりません。多くの子どもを育てるには、日常的に共同育児ができるようにしなければならなかったはずなのです。それが前提になって集団が大きくなり、しかも肉食が増え過大なエネルギーが得られて脳が大きくなると、子どもの脳の発達が優先されて身体の発育が遅れる。そのため多くの人の育児の手が必要になってさらに集団が大きくなり、シナジー的に脳の増大が促進されていろんな人間関係を操作できるようになって……というふうに、膨らんでいった。それが第二の食物革命です。

最初の言語は何を目指していたのか?

言葉の誕生は今から5万〜15万年頃だと言われています。集団が大きくなってくると、経験豊かな年上の人間が若い世代に情報を伝達できると、非常に効果的です。たとえば何かトラブルがあった時に「これは前に経験したことがある。こういうことで解決した」とみんなを導く。そんな場面で使われた最初の言葉は、おそらく「分類比喩」だったと思うんです。一個一個異なる自然物を「石」なら「石」と分類する。また「昨日あるところに石があった」という情報を「石」という言葉によって、それが目の前になくても伝えることができる。言葉には時間空間を超越する性質がありますから、ちょっとした比喩を出すだけで、今ここにないものもありありと語ることができますね。なかでもトーテムは、おそらくごく初期の言葉によってもたらされた風習だろうと思います。詳しい説明を要する人間の性格を「オオカミ」とか「クマ」のようだと表現すればわかりやすい。それがだんだん意味を伝達するようになり、どんどんと広まっていった。

人間も、他の類人猿も、非常に視覚優位の世界に住んでおり、見たことこそがリアリティを構成します。そして、そのような視覚社会を表現するのが「言葉」なのだと言えるでしょう。今われわれは言葉によっていろんな概念を伝えることができますが、最初の役目は、見たことを伝えるということだったと思いますね。あそこに何かがあるという時に、実際に行って見なければわからなかったものを、見なくてもわかるようになった。またひとたび言語が完成されることによって、人間は巧みに「」をつくこともできるわけですね。

ジャングルのような大学を作りたい。

われわれはどこから来たのか、その由来を知ることは、直接に今の人間の価値観、世界観につながると考えています。たとえば『暴力はどこからきたか』でも書いたのですが、戦争の起源というものもすごく誤解されてきたことのひとつであって、「戦争は、人間にとって唯一の平和の手段である」といった言説がまかり通ったりする。しかしそれはわれわれにとって、すでに滅んだ仮説なんです。いかに人間の行動や社会の由来について知られていないか、いかに誤った考えの下で今の人間社会が眺められているか─これらを正さないと、現代社会が間違った方向へ行ってしまうかもしれません。

また、現代社会について特に重要なのは、人間のコミュニケーションの方法が急速に変化しているということです。つい最近まで人間がお互いに信頼を築く方法というのは、会って話をすること、あるいは人間の五感すべてを使ってつきあうことでした。それは時間がかかるものだったんです。それが効率化、経済化という視点で新たなコミュニケーションツールが発明され、人間のつながり方が変わった。なかでも私が不安に思っているのは、人間関係が絶えず”オン”の状態になり、ずっとつながっていないと不安に思うようになってきたということです。もちろん人間は「共感」がなければ生きていけません。しかし共感に取り巻かれるような装置を作り上げれば作り上げるほど、どんどん自分が侵食されてかえって不安を募らせている。それが近代科学技術の姿です。つながっている見えない誰かが決定してくれればいい。人間が何百万年もやってきた、ひとりになってものを考える、相手と付き合い、そのやりとりの中でまた自分を鍛えていく、という自立性確立のプロセスが、今壊れつつあります。

だから大学という場所は、対話を重視した学びをやろう─ネット時代、学生は今、知識を求めて大学にやって来るわけではないでしょう。大学は実際に参加し、実践することを通じて人の考えに接し、対話し、その中で自分というものを再発見する場所である。実験、フィールドワーク、あるいは海外で異文化を体験したり、企業の中でインターンを体験するなどさまざまな実践があるでしょう。大学はそのような多様な「窓」を与え、ブレない自分でいるための「決定力」を伸ばす場所でありたいと考えています。ちなみに窓=Windowの「W」はワイルド・アンド・ワイズ。つまり、ジャングルのような大学を作りたい。猛獣がいっぱいいて、それぞれの能力をみんなが発揮しながら、不思議に共存している。それがいいじゃないですか。