法とは何かという問いに関しては、現に存在している法こそが法であるという考え方があり、この立場は法実証主義と呼ばれています。この立場では、現に存在する法とあるべき法、従って法と道徳とが明確に区別されることになります。このような見解に対しては、現存するルールの体系によってはカバーしきれない限界的なケースについてはどのように対処することになるのか、という疑問が提起されることになります。
この点に関して「そのようなケースについては司法による裁量的判断によって決する他はない」と考える立場もありますが、しかしながら、やはりそれは現実の法実践において行われている実態にそぐわないだろう、という批判も向けられています。裁判官が、既存の法が及んでいないように見えるケースを前にしたときに、自らの裁量的判断に従った解決を導くような判断をするだろうか?──いや、しないだろう、裁量的な解決ではなく、既存のルールの基礎にある諸原理やそれによって構成される法体系の構造それ自体などとの関係で最も適合的な「法に従った」解決を、裁判官は必ず見出そうとするに違いない、というわけです。
司法的裁量の位置付けやその是非をめぐる問題は、法哲学上の根本的問題の一つであり、このような難問について軽々しく結論を導くことはできません。ただ、実定法の研究に携わる者として感じるのは、諸々の法ルールは、個々の具体的な事実関係に関して適用されるものであると同時に、それらの事実関係やその背後にある社会的・制度的枠組によって大きく規定されている、ということです。このことは、判例について分析するときなどに、とりわけ強く感じます。判例の意義について理解しようとするならば、その判例が前提としている事実のレベルに降り立っていかなければならない。しかも、単なる個別の事実について観察するというよりは、その法的問題と関連する事実関係をどのように類型化すべきなのか、どのような事案類型に関して示された判断としてその判例を理解すべきなのか、というように、法と事実との相関的関係を基礎とした類別化の作業を踏まえた考察を積み重ねていく。そういった作業を通じて初めて判例の抽象的な命題の位置づけが見えてくるのではないか、というのが実定法学者としての私の実感です。そして、そのような作業を繰り返す中で、法とは何かという根源的な問いについて考える上での手掛かりが見えてくるのではないか、という期待も抱いています。