file 03:「ケアする権利」を考える

ケア」はこれまで、たとえば要介護状態になった親の面倒を見ることを強要される、引き受けざるを得ない、そういった状況が問題で介護の社会化を進めていかねばならないということが議論されてきました。それはその通りなんですけれども、実の親に限らず、大事な人がこの世を去っていくときに、何らかのかたち、無理のない自分の望むかたちで関わっていくことができる、「ケアの権利」も重要ではないかと思います。実際には今、自分の望むかたちで関わることは、なかなかできず、ケアをいったん引き受けたら、仕事もやめざるを得ず自分の人生設計が大きく損なわれてしまうような状況に追い込まれたり、それを避けようとすれば全面的に医療や福祉の施設に委ねなければならなかったり……そうじゃないと思うんです。

自分が出来る範囲で、自分が関わりたいやり方で、他からのじゅうぶんなサポートを得ながらケアをする。しかもそのことが自分のその後のキャリアや人生設計に響かない。そのようなかたちでケアを担えるような、そしてケアしたことがその人にとって後で「やってよかった」という喜びとなるよう、ケアができるよう保障されるということ、これを私たちはやはり「権利」と捉えていいと思うんです。

育休や介護休をとると「職場の同僚に迷惑がかかる」とよく言われます。しかし、人間は本来的にケアされる存在である。誰もが、幼少時や老年期を含めて人生の5分の1くらいはケアされているのだから、日常的に5分の1だけケアする責任を担うのは当たり前なのではないでしょうか。だから、職場で同僚が育休や介護休暇を取ったならばそのサポートをしていくのも、その人なりのケアの責任の担い方であると考えることもできるのではないでしょうか。職場によって、育休や介護休暇を取る人が多くいる職場もあれば、ほとんどいない職場もあるというようにばらつきがあるでしょうし、そうした個別的・個人的なやり方では不公平が生じるおそれはじゅうぶんにあります。育休や介護休暇が権利として当たり前に取れるためには、周囲の負担が増えないよう企業が責任をもって人員配置をすべきだ、というほうが正論です。でも、依存を必然とする人間として、自分が直接ケアしないとしても、ケアを担っている人をサポートすることは、当たり前の責任だという考え方ができるのです。

近代産業社会はケアの現場を見えない「私」的なところに押し込めて、「公」な場にはそんなものはまったく存在しないかのような社会のしくみをつくってきた。そのことを曝いていくことが大事だし、またケアフリーでいられることが有利である人間像、社会像のおかしさも曝いていく必要があります。