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研究の壁を越えたとき II

ハエたちが奏でる音楽。

東京薬科大学生命科学部
上川内あづさ助教

今回訪問したのは、東京・八王子の東京薬科大学 生命科学部 分子生命科学科にある、脳神経機能学研究室。研究室に一歩足を踏み入れると、倍率の異なるさまざまな顕微鏡がずらり。この一角にデスクを構えるのが、ショウジョウバエ聴覚に関する最先端研究に取り組み、2009年には文部科学大臣表彰「若手科学者賞」にも輝いた上川内あづさ助教だ。ハエたちのいる実験室を巡りながら、お話をうかがった。※2011年より名古屋大学大学院理学研究科(教授)。

ハエとチャレンジの日々

まずハエを飼育している部屋をご案内しましょう。生物の実験ではショウジョウバエの中でも「キイロショウジョウバエ」という種類を使いますが、この部屋にいるハエはすべて、それぞれ染色体上の異なる場所に特定の遺伝子が導入されたハエです。どんな特徴を持ったハエかというと、たとえば特定の神経細胞だけで酵母転写因子(GAL4)が発現しているハエ。この酵母の転写因子をコードする遺伝子が載っている染色体と対になっている染色体には、たとえば羽の一部が欠けているといったわかりやすい形質が載っているので、このようなマーカーをいくつか目印にして、顕微鏡をのぞきながら実験に必要なハエを集めるわけです。

特定の神経細胞で転写因子を発現するハエを集めたら、この神経細胞内に蛍光を発するたんぱく質(GFP)を発現させ、このハエを解剖することで聴覚情報の伝達経路をつきとめていきます。GFPで光らせたハエは、解剖室へ持っていき、顕微鏡とピンセットでそのを取り出します。脳の大きさはおよそ横幅600ミクロン(0.6 ミリメートル)、厚みが200ミクロンぐらい。次に共焦点レーザー顕微鏡というもので脳の切片図を見て、具体的にどの部位が光っているのかを詳しく調べていきます。

人が音楽を美しいと思う起源はどこにあるのだろう?

私が特に興味を持っているのは、音なんですね。音というのは、案外、生物たちのコミュニケーションに使われています。たとえばハエの場合は羽音を奏でることで求愛歌を歌うのですが、これを録音して雄と雌のハエに聞かせると、雄は必死になって雌を追いかけ始めます。雌は最初は逃げるんですけれども、だんだん逃げなくなってやがて交尾します。求愛歌というのは聞いていただくとわかるように、かすかな「フー」とやや強い「ブー」という羽音を交互に出すだけです。これを私たちはちっとも美しいと思わないけれど、ハエはきっと美しいと思っている(笑)。

私たちも音楽を聞いていい気分になったり、気分が悪くなったりしますが、これも考えてみれば不思議な現象です。サッカーの応援ならやっぱり活性化させるような音楽が向いているし、逆に私たちはふと波の音に癒されたりします。しかしそれがなぜなのか、その時脳がどうなっているのかは、まだはっきりとはわかっていません。考えられるのは、音を聞いた時、私たちの脳は音に意味を与え、それによってコミュニケーションが成り立っているのだろうということです。ハエにとっての美しさとは何なのか、もしそのしくみがわかれば、人の音楽が美しいと思う起源は何かといった問いにもチャレンジできるかもしれない。ハエの研究が将来、このような問題を考えるヒントになればと、期待しています。

研究の壁を越えたとき

ショウジョウバエの「耳」にあたるのは、触角の付け根にある「ジョンストン神経」という感覚細胞であることが知られています。これを詳しく調べて、2009年、私たちはハエの「耳」が、音、重力、風を検知する独立のしくみを持ち、別々の神経経路で脳に伝えていること等を明らかにしました。この研究がネイチャー誌に掲載され、若手科学者賞へつながったんです。視覚や嗅覚については以前からわかっていたんですが、聴覚の場合は実際にハエの感覚器のどの細胞がどの情報を受け取って、脳のどことどこを結んでいるのか─これを神経投射といいます─が、全然わからなかった。

というのも、神経投射を調べるというのはとっても地味な仕事なんです。要するに、誰もやりたがらない(笑)。ところが私たちはこの神経投射を調べて、2006年に、感覚器から脳へと神経細胞がどうつながっているのかを発表しました。これには実際、時間も労力もすごくかかったので、とても思い出深いものがありますね。2009年の研究は、実はこれを土台にして、では何の情報を伝えているのか? というふうに発展していったものなんです。

現在では、キイロショウジョウバエが一番最初に音を受けとって脳へと伝える細胞が、片側で200個程度あることがわかってきています。これから神経細胞の1つ1つを調べて、脳の中で音の情報伝達がどのように行われているのかを解明していきたいと考えています。ヒトの神経細胞の数は千億といわれていますが、ハエの場合はたかだか数万ですから、がんばれば、いつか終わる。何がわかってくるか、とても楽しみです。

文:上川内あづさ・池谷瑠絵 写真:水谷充 取材日:2010/06/22