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明日へとつなぐ鍵Ⅲ

量子力学のふしぎを問い直す。

素粒子原子核研究所
筒井泉 准教授

1世紀近く前に確立された学問でありながら、現代人が持っている「科学の常識」ではなかなか理解しがたいのが、量子力学の世界だ。たとえばその基本となる「量子」という概念は、通常「粒子」だと考えられている電子や、「」と考えられている電磁波などがいずれも「波であると同時に粒子である」という。さらにそれらを測定しようとしても、「不確定性原理」により位置と運動量を、同時に正確に知ることはできない。─そこで、今世紀に入って急速に発達してきたミクロな世界の実験成果を背景に、量子力学の基礎を問い直そうという筒井泉准教授を、つくばにある高エネルギー加速器研究機構・素粒子原子核研究所に訪ねた。

アインシュタインとボーアの大論争

量子力学は1920〜30年代に完成され、それまであった古典物理学の根底を─相対性理論よりももっと激しく─変えたんですね。ですから当時、非常に混乱した。その象徴的な例がアインシュタインとボーアの論争なんです。アインシュタインは量子力学は(その理解の仕方が)「間違っている」、のちに「不完全」だと言って、死ぬまでこの立場をとりました。それに対してボーアは、量子力学は間違っていないし不完全でもない、と。1910年ぐらいから量子力学の建設に関わってきたボーアは、古典物理学では説明できない現象をどう説明するのか、長年苦心惨憺して、弟子のハイゼンベルクらとも討論した果てに到達した考えだったから、確信があったんですね。論争は、平行線が続きました。

アインシュタインは、たとえば本、机、人間……といったものはみんな存在しているし、小さな粒子、さらには原子素粒子も当然存在しているという前提の下で物理学をつくらなければならない、と考えていました。長さでも重さでもわれわれが測った時に得られる値を物理量といいますが、この物理量は、測るたびにいろんな値になるのではなく、われわれが測ろうが測るまいが確定して存在しているはずである、と。この「物理量の実在」という考えに、アインシュタインはあくまでも固執したんですね。

一方のボーアは実証的な立場から、観測していないものについて、存在している/していないという議論はできない、という考えです。測定のしかたによって、どのような物理量をわれわれが認識できるのかが違ってくる。存在したものも存在しなくなるし、あるいは存在の形態なども変わっていくんだという、新しい「存在」の姿を示していました。ある観測を行えば、その測定にフィットした物理量だけが存在するのであって、あらゆる一般的な物理量は存在するとは言えない─これは現在でも量子力学の基本的な考え方ですが、アインシュタインはそれは不完全であり、より完全なものがあるのではないかと思っていた。

量子情報と基礎論の歯車が合って。

論争の末ボーアは、このような哲学を含む問題を追究するよりも、特に若い人は量子力学がどう使えるかを研究するべきだという方向性を示しました。これが約半世紀間、物理界を支配し、また非常に成功して、現在の最先端科学の基礎をつくってきたわけです。そして1990年代になってやっと、量子情報科学の発達などを背景に、もう一度量子力学の基礎的な概念を見直そうという気運が生まれてきます。特にここ10年間は、ミクロな世界に関する実証実験が成果を挙げ、今までは思考実験に過ぎなかった諸問題が、実験で確かめられるようになってきました。実証的な量子情報科学とうまく歯車が合って、量子力学の基礎論が、学問としてとても健康的に発展しているという印象を受けますね。

たとえば量子力学はあらゆる物理の基礎にあるので、本来、ミクロの世界だけでなく、ずっとマクロまで適用できるはずです。ところがわれわれがふだん目にすることができるマクロな世界では、量子的な現象は見当たらない。するといったいどこに境目があるのか、どうしたらそれを検証できるのか? といった問題も気になります。これについてはウィーン大学のツァイリンガー教授(Anton Zeilinger, 1945-)が取り組んでいる、量子力学で特徴的な干渉を使った実験が有名です。粒子が波動のように干渉する状態を確認するのですが、最初は大きめの原子、続いて分子と十数年かけて続けられ、最近ではウィルスなどの小さな生物にまで試みられてきています。

不確定性に関する議論(小澤の不等式)も、最近話題になりましたね。これは量子力学の一番根本的な原理のひとつである不確定性原理が、元のハイゼンベルクのままでは成立しないというものです。また、ある条件の下でアインシュタインの考えを肯定し、物理量を確定的に扱う「弱値」という考え方も、近年、盛り上がりをみせています。

「きみには自由意志があると思う?」

それから、私が『量子力学の反常識と素粒子の自由意志』で採り上げた「自由意志」に関する論文(2006)も、ちょっと挑発的なアイデアで、アインシュタインとボーアに連なる議論を深めていこうというものだと思いますね。ここで言う自由意志とは、不確定な値ということです。われわれ自身が次にどういう判断するかは不確定であって、これと同じ意味で、電子や素粒子がどういう値─たとえばスピンの向きといったもの─であるかは不決定である、つまり自由意志があるということになります。量子力学の通常の解釈ではこの立場になるわけですね。一方、宇宙の始まりにさかのぼってある初期条件によって世界が決定されたとすれば、われわれには自由意志はないはずだ。同様に、電子や素粒子にも自由意志がない─これは、アインシュタインが言った決定した物理量がある世界に対応します。

僕の観点は、物理を研究している人、またこれから研究しようという人は「自由意志とは何か」と聞かれたら、自分の考えとその物理的な根拠を説明できたほうがいいだろう、というところにあります。そこで学生に「きみには自由意志があると思う?」と聞くと「当然ありますよ」と答える。「は?」「あると思います」「おはどう?」……と。だんだん小さくしていくとアメーバぐらいでなくなったり、哺乳類にはあるけど爬虫類にはないとかね(笑)。そこでさらに「どうしてわかるの?」「ある/ないの境はどこ?」と聞いていく。ちなみに量子力学を研究しているイタリア人の学者に聞いてみたら「その境は当然、人間とサルの間にある」と言う。おそらく元来のキリスト教の考え方ですね。

ところで科学研究の究極の目的は、この世界はどうしてこういう構造をしているのか、なぜ私が存在するのか、生きる目的は何だろう?─そういった疑問に多少とも答えようとすることではないかと、私は考えています。ところがこれら究極の目的は「why」という問いであるのに対して、科学が答えることができるのは「how」なんです。「こういうプロセスだから」とは言えるけれども、「なぜか」は言えない。しかし「how」がいろいろわかることによって、われわれ自身がその結果を見て「why」を考えることができる、その素材になるんですよ。そういう意味で、科学研究を進めていくことは人類の一番価値のある仕事でもある。そして量子力学の基礎の研究は、「なぜ」という究極の質問にわれわれ自身が答えるステップに役立つのではないかと考えています。それはそもそも、私が研究者になろうと思った理由でもありますから。