僕が住んでいた頃の滝山団地には、スーパーや商店街があったけれども、ほぼ生活必需品しか置いていなかったですね。しばらくは本屋すらなかった! ましてや喫茶店も、古本屋もありませんでした。ところが中央線沿線では、たとえば国立の駅前の当時の地図を見ると、喫茶店がたくさんあったんですね。古本屋もあるし、劇場、映画館は当たり前、という環境です。中央線の沿線は大学がやたらと多かったし、国立みたいにもともと大学町として出来たところもあって、大学と市民との距離が近い。ふつうの主婦が当たり前のように公民館で勉強して、勉強が終わったら喫茶店へ移動して話していると、その横には大学生が座っている……そんな風景ですね。主婦にも教養を高めようという風土があります。同じ中央線沿線の杉並区でも主婦たちの勉強意欲は盛んで、公民館を中心に原水禁運動が起こってきたりします。
西武線沿線にあるのは大きな団地で、団地には大学生は住まない。核家族が住んでいるわけですね。夫や子供を送り出した主婦達が力を入れていたのが、ひとつには団地という共同生活で起こったさまざまな問題に対処していくような自治会の活動です。自治会を作って公団と交渉する、あるいは地元自治体や西武鉄道、西武バスと交渉する、といった活動を始める。そして電車やバスの運賃値上げに反対したり、西武ストア(現・西友)や西武百貨店の不買運動に発展したりする……しかしどうも、西武線沿線のほうが生活に余裕がないんです。
一方、東急沿線は西武ともまた違っていて、最初から戸建て開発でした。団地とちがって一度に人が増えるわけではない。買収した土地を長い時間かけて開発してきて、今のような住宅地になってくるわけですね。団地はやはり子供が成長するとある時期に一気に人口が減る上、老朽化してしまいますから、今になってみると、やはり先見の明があったということにもなります。
ただ70年代に戻って考えると、実はそうでもなかったと僕は思うんですよ。僕は1975年に滝山団地から田園青葉台団地へ引っ越したのですが、当時の田園都市線はラッシュ時でも4両編成、昼間は12分間隔、しかもターミナルは大井町であって、都心と接続すらしていませんでした。僕はそれまで、当時すでに10両編成だった西武線で、しかも急行や準急ばかりか通勤急行や通勤準急もある今とほとんど変わらないダイヤで過ごしてきて、しかも車内はいつも満員だった。田園都市線に引っ越してきた当時は、もう完全に「田舎だなあ」という感覚だったことを憶えていますね。