file 01:物理の人は量子がわかってない!?

私は元々は素粒子を研究していて、最初から量子力学に興味を持っていたわけでは、実はないんです。1980年代、物理の中でも最も基礎的な法則を研究したいと思って大学院に入った時には、よもや量子力学の基礎が研究対象になるとは思っていなかった。少なくとも周囲の研究者たちが議論していることはありませんでした。

その後1988年にポスドクとしてヨーロッパへ行き、素粒子の数理的な研究をしているときに、現地の研究者たちが時々話しているのが耳に入ってきました。それまで全く知らなかった世界で、しかも専門性が高いので、一種のカルチャーショックのような感じでしたね。しかし当時ヨーロッパでは、すでにかなりの勢いで量子情報の研究がスタートしていたんです。

1993年に帰ってきた時には、日本でも量子情報の研究プロジェクトが始まったり、研究グループが立ち上がったりし始めていました。量子情報科学は応用分野が幅広く、なかでも量子計算は21世紀の科学的な大革命になるのではないか、と話題になっていた。しかし私から見ると、まだ、物理学の基本問題ではないと思っていました。

ところがそれから調べていくと、量子情報科学は「量子もつれ(エンタングルメント)」という量子力学特有の状態を、最も基礎的な資源として使うんですね。この量子もつれの物理的な性質を理解するためには、ベル(John Stewart Bell, 1928-1990)の不等式とその検証など、数学的な意味だけでなく概念的な意味でも、いろいろ難しい問題があることがわかってきました。

つまり、量子力学の基礎というのはなかなか一筋縄ではいかない、ちょっと勉強したからといってすぐわかるようなものではないんですね。今でもそうですけれども、物理学を専攻した人は大学で3、4年勉強しているから、自分は量子力学がわかっていると思っている。それが大間違い(笑)。いや、あなた絶対わかっていないんですよ、とわからせるのが最初のハードルです。私も1990年代の半ばに初めて真剣に勉強して、この大間違いに気づいたんですね(笑)。実はちょうどその頃から、量子力学の基礎的な問題も取り扱っているような新しいタイプの教科書が出てきたという背景もあります。そういった教科書も使って勉強しないと、本当はわからないんです。

ちなみにベルの本を読むと、彼自身も、研究仲間への説明に相当苦労していたことがわかります。たとえばアインシュタインたちが問題にしている量子力学の話をしようとすると、そんな問題は片付いているよ、という人がたくさんいる。では、どう片付いているかを聞くと、その答えが千差万別である、と。みんなそれぞれに自分勝手な片付け方をしていて、どれも中途半端だということにほとんど気づいていない、というわけです。ベルは量子力学の「観測」におけるミクロとマクロの二重概念などは、ほんとうにはっきりと区別が論じられるものかどうか疑問だと言っています。書名もずばり「論じられるものと論じられないもの」という本です。

J. S. Bell
World Scientific Publishing Company; 1版   2001年8月   ISBN-13: 978-9810246884
※原著「Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics」の増補改訂版です。