つながるコンテンツ
未来を探るひきだしⅡ

昆虫脳がもたらすもの。

東京大学
神崎亮平 教授

昆虫はすごい能力を持っている。地球上にいる数百万もの種類の動物のうち7割以上が昆虫だという。特に嗅覚では、メスの出すフェロモンの匂いに反応して、何キロも離れたその匂いの源を探知する─これは「ファーブル昆虫記」にも記された有名な話だが、人間の技術ではまだこのような匂いセンサやロボットは実現していないそうだ。匂いセンサや遠くの匂いを探し当てることは、何億年もの環境変化を生き抜き、進化し、多様性を保っている昆虫ならではの高い情報処理能力を示す、ほんの一例なのだ。昆虫の脳を「京コンピュータ」に再現し、ロボットを動かし、を理解し、脳をつくろうというまったく新しいアプローチから、脳研究に取り組み、世界的な注目を集めている東京大学 神崎亮平教授にお話を聞いた。

昆虫の小さな脳はヒトの脳を知るためのテストベッド

ヒトの脳は大きくて複雑なので、そのしくみを理解するにはかなり手強いです。でも僕らは脳のこと、たとえば情報処理、記憶、脳の疾患のことなど知りたい。できればヒトの脳を完全にコンピュータに再現して、そのしくみを明らかにしたり、さまざまな脳の疾患の原因や治療に役立てたいわけです。実際、欧米では国をあげてこのような取り組みをはじめています。でも、すぐに実現するわけではない。脳は、ニューロンという神経細胞からできていて、その形や働きは動物を通して共通しているんです。ヒトの脳は、1,000億もの神経細胞からできていますが、昆虫は10万です。圧倒的に数が少ないんです。動物の系統と脳の進化をたどってみると、1つは脳の大きいヒトへ、もう一つは小さな脳を持つ昆虫の方向に分かれますが、実は、脳を形作る単位である神経細胞(ニューロン)や神経系をつくるしくみは、この分岐以前にできていて、ヒトであろうが昆虫であろうが、基本的にはそのしくみは共通しているんです。

もし小さな昆虫の脳をニューロンから完璧にコンピュータ上に再現できたら、どうでしょう。脳が担っている機能を予測したり、ダメージを受けたらこの回路を動かせば元通りにできるというように、予測しながら脳の働きを変えたり、修復したりできるかもしれませんね。昆虫の脳は、ヒトの脳を理解する上でのテストベッドなわけです。昆虫はこのようなヒトの脳を知るためのテストベッドとなるだけじゃなくて、その能力には学ぶべきことがたくさんあります。

昆虫から学ぶバイオミメティクス

昆虫の脳は長さが2ミリメートルぐらい。触角を持ち、左右に複眼があります。とても小さいけれど匂・触・音・味・光の五感をすべて感知できます。このような感覚を使って、障害物など難なく避けることができます。ゴキブリなどは、に反応して逃げますが、反応時間も0.02秒と、ヒトにくらべて10倍くらい速いんです。刺激に対して適切に行動することは、生きていく上でたいへん重要です。昆虫たちはどんなしくみでそれを実現しているのか、興味が湧きますよね? それに、僕らは、人間が考えたり、生み出したりしたやり方やモノがいちばんいいと思っているかもしれないけど、地球上にはたくさんの生物がいて、いろんな方法で、巧みに生活しているわけです。僕らが思いもつかないような方法で、いろいろな問題を解決しているかも知れないですね。中でも昆虫は、あらゆる環境で生活し、動物の7割以上の種を占めている。昆虫のやり方は「昆虫ならでは」。実は簡単で、エコで、経済的な、われわれヒトがまだ知らないやり方を使っているかも知れませんよね。このように生物のしくみに見習おうというアプローチを「バイオミメティクス(生物模倣)」といいます。

昆虫の能力をロボットで探る

じゃあ、実際に昆虫というのはどれくらいの能力をもっているのか? それをロボットを使って調べたんです。僕らがすごく興味を持っていることの1つが、昆虫がフェロモンなどの匂いの源を探し出す能力です。「ファーブル昆虫記」にも紹介されているんですが、雄のガは数キロ離れている雌を匂いで探し出すと言われています。ところで「匂い」というのは、実はとっても複雑に分布しているんです。匂いはに乗って運ばれてきますが、風をを使って視覚化するととても複雑なまだら模様になっているのがわかります。匂いは連続的にあって、匂い源に向かって濃くなっていくように思うかも知れませんが、実はそうじゃなくて途切れ途切れなんです。それに風があると、しょっちゅう匂いの分布が変化します。だから、匂いの濃いのを探すようなやり方では、ダメなんです。これまで多くの工学者が匂い源を探すことにがんばってきたんですが、かなり厳しい。昆虫のようにはとてもいかない。だから、被災地で生き埋めの人をさがすのは、未だに犬が活躍しています。

ガの仲間はメスの匂いをオスが触角で感知し、その源を探し出すんですが、その雌の匂いは、フェロモンといいます。カイコガではじめてフェロモンの化学構造が明らかにされました。1959年です。カイコガの成虫の寿命は1週間ほどですが、その間にオスはこのフェロモン源を探す以外には何の行動もしないんです。

僕らは、このカイコガが匂い源を探す能力をみるために、カイコガが運転手になって操縦するロボットを作りました。ロボットの操縦席にあたるところに空気で浮上させた精密なトラックボールを設置して、カイコガを乗せます。カイコガが歩くとボールが回転するので、その回転を読み取って、カイコガが動くのと同じようにロボットが動くようにしたんです。93%の精度で動きます。カイコガにこのロボットを操縦させると、100%匂い源にたどりつくことができるんです。そこで、カイコガの能力をみるために、カイコガがまっすぐ歩いても、左に回転するようにロボットを操作したんです。こんな変な動きをするクルマをちゃんと乗りこなして、しかも匂い源を探し出せるかを試したわけです。すると、カイコガは、ロボットの変な動きを察して、ちゃんと補正して、見事匂い源にたどり着いたわけです。ところがフロントガラスを紙で塞いで前方をみえなくしてしまうと、ぐるぐる回ってしまってたどり着くことができません。カイコガは視覚フィードバックをつかって、自分が正しく動いているかを、きっちりと補正をしながら、匂いを探しているんですね。

これとは別に、昆虫が動く障害物を避けながら進むしくみを調べてみました。障害物はいろんな速度でいろんな方向からやってくるんですが、このような課題では通常、物体の速度や方向を計算して、空いているところにコースをとるような計算をします。ところが、そんなやり方では、問題が複雑になると計算量が膨大になって大変です。渋谷のスクランブル交差点を渡りきるようなことはとても無理です。それに、昆虫の視力は複眼のため、0.01ぐらいしかないし、遠近感もわかりません。こんな条件で、昆虫はちいさな脳で計算して、この問題を解いているわけですから、きっと僕らが考えるのとはちがったやり方をしているはずです。そこで、コオロギを使って、仮想環境下で、迫ってくるボールから逃げようとする行動を細かく調べてみたんです。いろいろと昆虫が使っているルールが見えてきました。昆虫のこのやり方を使うと、複数の障害物がランダムに動く中でも、簡単なルールで回避できることもわかってきたんです。こういった昆虫の能力はもちろん脳の働きによって起こるわけです。

  

昆虫の脳をつくることで脳のしくみを明らかにする

僕らの研究室では、昆虫の脳のしくみを明らかにするために、遺伝子、神経細胞、神経回路、行動といったさまざまなレベルから昆虫の脳を分析しています。そして、これらの情報はデータベースに登録しています。特に神経細胞1つ1つの形や働きは徹底的に調べてデータベース化しています。この情報を使って、カイコガの脳内の神経回路を精密に再現するわけです。昆虫の脳といってもかなり複雑で、分析するだけではなかなかわからないです。そこで、カイコガの脳を作ってみようという発想が生まれます。ヒトの脳では難しいですが、昆虫くらいの小さな脳だと可能性があります。別の言い方をすると、脳をつくって理解しようということです。

昆虫の脳の中をCTスキャンすると、神経細胞からできたいろいろな構造物があります。匂いを識別するための構造、記憶や学習と関係する構造などがあります。モジュール構造ともいいます。ヒトの脳にある運動野、言語野のように特別な働きをする脳の領域と同じようなものです。昆虫の脳はこのようなモジュールからなり、モジュールはもちろん神経細胞からできています。脳をジグソーパルズの絵にたとえると、神経細胞はピースに対応します。このピースを集めて、モジュールをそして脳を作っていくわけです。すると脳を神経細胞からなる集まり、つまり神経回路モデルとして表すことになります。この神経回路モデルはかなり複雑なので、それを動かすために、「京コンピュータ」というスーパーコンピュータを使います。京コンピュータでは、一秒間に10の16乗(京)回の演算ができます。だから「京」というんですが。京を使うと、1万個くらいの神経細胞からできている神経回路だと、リアルタイムでシミュレーションできます。この1万個というのが重要な数で、実は、僕らが今注目している昆虫の嗅覚にかかわる、匂いを識別して、匂い源を探す行動をおこすのに関係する神経細胞の数がだいたい1万個なんです。ちょうど同じ数というわけなんです。

サイボーグ昆虫で脳のしくみを検証する

昆虫の優れた行動を起こすのは脳のはたらきです。脳で処理された結果は、脳からでて身体を動かします。そこで、この脳からでる信号を使ってロボットを動かしてみました。昆虫の脳の信号で、ロボットの身体が動く、いわば「サイボーグ昆虫」ですね。脳からの信号でちゃんとサイボーグ昆虫が匂い源を探すことができれば、僕らが、カイコガの神経細胞1つ1つから作り上げた脳の神経回路モデルの正しさや、この信号が本当に匂い源探索の行動を指令していることも検証できるわけです。そこで昆虫の頭部にある匂いのセンサである触角、視覚センサである複眼、脳、そして胸部の一部を残して、脳から信号を記録して、その信号でロボットを動かしました。すると、サイボーグ昆虫、ちゃんと動いて匂い源に到達しました。匂い源への到達率はやや落ちて6〜7割程度でしたが、脳の信号だけで匂い源に到達したわけです。このような脳と機械が一体化したサイボーグを用いることで、脳が環境下で変化する様子を記録しながら、神経回路モデルを本物の脳にどんどんと近づけていけると考えています。こういう研究によって、自然が進化で作り上げた脳という情報処理装置をはじめてコンピュータ内に神経回路モデルとして精密に再現できるものと思います。また、昆虫の脳の解明は、ヒトの脳を理解、さらには、昆虫ならではの方法を使って機械を制御するうえでも、生物のように振る舞うロボット知能を構築する上でも重要なわけです。

なぜ、カイコガを使うのか?

僕らが、なぜカイコガを使って脳の研究をしているかですが、昆虫をモデルに脳の研究をするというと、普通、多くの研究者はショウジョウバエを使います。ショウジョウバエはアメリカから来た材料で、たくさんの研究者が使っているので、研究するための環境や方法が非常によく整っています。だから、脳の研究をはじめる場合にも適していて、研究のスピードアップにもつながるすばらしい材料です。でも、僕の考えは少し違っていて、もっと日本オリジナルな材料を使いたいと考えています。それに、日本で設計され作られた「京コンピュータ」に、脳を作るわけですから、ぜひ日本で古くから研究材料として使われてきたものを使いたい。そこから、全世界でその材料で研究が展開するベースを作りたいと考えています。また、いろいろな動物で脳のしくみを比較することはとても重要で、比較することではじめてわかってくる脳のしくみもあるはずです。だから、一辺倒にショウジョウバエを使うのではなく、カイコガ(英名:silkworm、 学名:Bombyx mori)を使っています。日本発の脳研究の材料として世界中で使ってもらいたいというマインドを持っているんです。こういうのは時代遅れかも知れないですが、僕の研究を進めるうえでの大きなマインドですね。

僕らは、カイコガの神経細胞などさまざまな情報を「無脊椎動物脳プラットフォーム Invertebrate Brain Platform (IVB-PF)」というプラットフォームから発信しています。理化学研究所との共同研究で進めさせてもらっています。こういうプラットフォームを通して、日本からカイコガを世界に発信していきたいですね。