つながるコンテンツ
未来を探るひきだしⅥ

見ることのちから

東京藝術大学 大学美術館
古田亮 准教授

この夏、東京・上野公園にある東京藝術大学美術館で「夏目漱石の美術世界展」のキュレーションを手がけた、古田亮准教授。映画における監督のような役割を果たす「キュレーター」として、専門の近代日本美術史という視座から、宗達を祖とするこれまでの「琳派」の定義変更を迫る2004年「琳派 RIMPA」展をはじめ、数々の話題の展覧会を企画・実現。そのかたわら第32回サントリー学芸賞を受賞した著作『俵屋宗達ー琳派の祖の真実ー』も話題だ。古典美術と私たち、研究と展覧会絵画音楽など、さまざまな「つながる」を切り口に、展覧会や本を巡るお話をうかがった。

展覧会は「発信する研究」

展覧会はふつう、一般の人たちにどう見てもらうかを意図すると同時に、専門の方々へのある種の発信も行っています。やはりその両方がなければ、展覧会は成立しないだろうと思うんですね。何をテーマに選ぶかは、もちろん自分がおもしろいと思うからなんだけれども、企画する最初の段階から、既に「これは展覧会になるかな」という考えも持っている。「展覧会になる」というのは、僕にとってそこに何か他人とは違う、自分の研究なり見方なりが入っているかどうか、だと言えます。まあやるからには、何か新しいことをやりたいねと。

展覧会は、ひとつの研究といってもいいんだけれども、それは発信する研究なんですね。開催することで誰かを刺激したり、何かにつながっていくことこそが展覧会の目的なのだから、いろんな見方が許されなければいけない。結論を出すような展示方法も極力控えていますし……つまり、開かれていないとおもしろくないんです。そもそも人が見るということに対して謙虚になれば、まず人が見ておもしろいものは何なのかということから発想しますよね?それをかたちにする時に研究という要素を入れることが、結局おもしろいことになる。僕の場合はそうなので、全部が研究になるわけです(笑)。

夏目漱石美術世界展」では、展示のおしまいの方に自筆の書画が出てきたり、その後さらに装丁本が並ぶという流れにしたのですが、やはり構成が非常に難しかったんですね。すると構成した側の意図と見る側の反応がやっぱり違ってきます。漱石自筆の書画に思いのほか関心が高まる効果があったり、また全然意図通りでないような反応があってもそれは失敗ではなくて、むしろ非常にうれしいことなんです。絵をどう「見る」かは……自由なんですよ。むしろこちらが、あ、そういう捉え方もあるんだとか、こういうところに興味を持つんだなとかいったことを、知るんですね。

見るとき、人は何を働かせているか

この「見る」ということは非常に重要で、授業で学生たちに伝えたいのも、「見る」を鍛えましょうという一言に尽きるんですね。現代社会はイメージが横溢する世界ですから、ある意味ではものを見なくても済んでしまうところがある。でも本当はみんな見たいし、展覧会にも行きたい。この「ふつうに何かを体験する」ということから一歩進んで、また誰かが主張している見方に倣うのでもなくて、本物の絵を前にして、自分は何が見えたのかがわからなければいけない。その時、自分が感じたものは何なのだろうと客観視することによって、研究が端緒につく。方法論としては、それに尽きると思います。

また「見る」ということは、根底においては視覚だけではないと考えています。見ている時、われわれは五感すべてを働かせていることもあるし、あるいはその人の人生そのものと対峙しているということもあるでしょう。見るときの態度は、特に意識していなくても、教科書で教わる以前に、人それぞれであるはずなんですよ。それが何なのかを自覚化するのは、そもそもとても楽しいことではないでしょうか。

『俵屋宗達』の中にも、見ることへの集中から絵が「聴こえてくる」という件があるのですが、最近これについて、学内の作曲科の先生が「わかる」って言ってくれたのは、うれしかったですね。研究にしても作曲にしても、どこかでそれは、日常的なところからはじまる感性を総合させたものだからです。また僕が本の中で提示していることは、こういうふうに見たらどうなるかという投げかけになっている。そこで専門が分かれていてもわかるというのは、まさに「つながる」ということだと思います。意外にも、何か突き詰めてああでもないこうでもないというのばかりが研究とは限らないし、僕自身はそれとは違うことをやりたいんですね。

次世代の医療とiPS細胞活用へ向けて

すると結局、思わぬ出会いというのはおもしろい、というところに尽きるのかもしれません。実は『俵屋宗達』もビビビッと最初にわかり合ってしまって、その直観をなんとか説明するというふうに書かれています(笑)。ただそれは本当にポンと思いつくのではなくて、調べているといろんな疑問が浮かんでくるわけですね。そして「なぜいままでこう言われてきたんだろう」「なぜ誰もそう言っていないんだろう」という疑問に、「もしこうだったら?」という新しい考えを入れていきます。たとえば琳派展では「近代から見た琳派」という方法論を入れたんですね。近代がまず光琳を評価して、大正時代に入ってそれまで知られていなかった宗達が見出される─まさに近代の歴史そのものではないか!ということを、今度は展覧会で並べて見てもらう……といった手順で進んでいくわけです。

しかしながら、どんなに昔の絵を展示するにしても、今の私たちが見ているということでしかあり得ません。描かれた当時にどう見られていたかを科学的に検証してできるだけ再現することはできても、それだってひとつの見え方に過ぎない。僕が強く意識するのは、かつて何百年も前から続けられてきた見られるという行為が積み重なって、絵が今そこにあるということなんですね。究極的には、真に客観的な真実があるというよりも、いろんな見え方がある中で今、自分はこのように見えているということについて理解したり、自覚したりすること─そして相対的ではあるけれども、過去や他者の視点から批判的に乗り越える態度こそ、ひとつの科学だろうと思います。美術史観察対象は美術作品であり、人文科学はどれも「人」を対象としています。人がつくっていないものを美術作品とは、やはり言わないですよね。ついでに、相手がいないと自分が見えない……そんなふうに考えられるわけです。

現在、東京藝術大学美術館のために企画準備している展覧会は、(なんと!)幽霊に関する「うらめしや〜」というテーマで、僕にとってひとつの終着点かもしれないという気持ちで取り組んでいます。なぜならそもそも幽霊とは基本的に見えないものですよね? 怖いものであると同時に、見えないもの見たさというか、見えないものを描こうとしている。すると描く側と見る側にある共通理解がなければ、絵が成り立たないということになります。その共通理解はたぶん「型」といったことでもなくて、それに触れると人はおのずと必ず反応するといった何かなのではないか。上野の山という「うらめしや〜」にはぴったりの場所で「新しい幽霊」をずらりと並べ、2015年夏に開催を予定しています。ぜひご期待ください。