つながるコンテンツ
トビタつための星Ⅶ

ヒトの常在細菌叢(さいきんそう)をメタゲノムの技術で解析 多くの研究者が利用できる「土俵固め」に取り組む

早稲田大学
服部正平 教授

地球上には、ありとあらゆる場所に細菌が存在する。ヒトの体も例外ではない。とくに腸の中には、約100兆個の細菌が暮らしているという。そして腸内細菌は健康に深く関係している。
だが、膨大な数の細菌をすべて調べることはできない。そこで用いられるのが、メタゲノム解析である。ヒトゲノム解析で大きな功績を残した服部正平教授は、現在、ヒトの常在細菌叢*(=腸内細菌叢)のメタゲノム解析に挑んでいる。

ゲノム研究は、土俵作り

腸内細菌がヒトの健康に深く関係していることは、かなり前から知られていたことでした。しかしその数は膨大で、さらにその99%以上は実験室で単離・培養することができないため、実態は明らかになっていません。ひとつひとつ菌を取り出すのは、ほとんど不可能とも言える膨大な作業であるばかりか、それをしたところでヒトの体への影響などを総体として捉えることはできません。なぜなら、菌が作る環境は、複数の菌や環境との相互作用の中で成立しているからです。そのため、単離・培養できるものだけを対象とした研究では、細菌叢が形作る生命システムは見えてきません。

そこで用いられるのが細菌の集団=細菌叢を対象としたメタゲノム解析です。細菌の集団を丸ごと遺伝子解析するのです。こうすることで、細菌叢全体の遺伝情報を取り出すことができます。単離・培養する必要はありませんから、一度に多くの情報を得ることができます。

ヒトの腸内環境は、食べ物や生活習慣などその人の生活が反映されます。ですから腸内の細菌叢を見れば、どのような外的因子があったのかを特定することもできるでしょう。さらに、その細菌叢がヒトの体にどう作用するのかを調べることもできます。つまり、腸内細菌を介して、環境とヒトの体の関係を知ることにつながるのです。また、健康な状態と病気のときとで、細菌や細菌遺伝子のどの部分に差があるのかを突き止めれば、その因子を取り除くこともできるようになるでしょう。

これができるのは、メタゲノム解析によって細菌叢全体の遺伝情報を一網打尽に獲得しているからにほかなりません。そのおかげで、菌のDNA の塩基配列を見れば生命システムにどのような影響を及ぼしているのかということを読み取ることができるからです。菌が持っている遺伝子の特徴が分かっているので、解析した配列が、なにに当てはまるのか分かります。健康に影響を及ぼす因子のマーカーがたくさんあることになります。

昔は、菌を知るためには、取り出して培養するしか方法がありませんでした。そのためには、ひとつひとつの菌を単離する必要がありました。でもその作業は膨大です。言ってみれば、山の大きさ、高さが分からないままトンネルを掘り進むようなもの。今、どのあたりを掘っているのか、どこまで掘れば貫通するのかがわからないまま掘り進まなければならないのでは、研究のロスも大きくなります。ですから私は、まず、山の大きさを知る研究に力を注ぎたいと考えています。

*細菌叢:ある特定の環境で生育する一群の細菌の集合

「プレーヤー」が活躍できる土俵を作りたい

以前は、解析によって塩基の配列が分かっても、その意味を読み取ったり予測したりすることができませんでした。なぜなら、ゲノム配列が持つ意味を照合することができなかったからです。並び方だけ分かっても意味を読み取らなければ分析はできませんし、大量の塩基配列を知る技術もありませんでした。

腸内細菌を専門としている研究者にとっては、ゲノム解析の方法はなじみの薄い分野です。ですから、メタゲノム解析を行うという方向性に踏み出すのは難しかったのだと思います。

私はもともと、腸内細菌に関心があったわけではありません。が、2003年に完了したヒトゲノム解析の経験を生かせる次の研究テーマを探していたときに、腸内細菌の研究と出会いました。ヒトゲノム解析の知識や技術を生かすことができ、おもしろい! と思ったのです。

塩基配列の全体像を掴み、その意味づけをするということは、「塩基配列の総合カタログの作成」に例えることができます。それぞれの研究者は、自分が見つけた配列がカタログのどの部分に一致するのかを照合したり、生命現象への影響を考察したりと、対象の意味を読み取ることができます。

カタログ作りはとても地味な作業です。でもこうした基礎的な研究があるからこそ、発見があり発明が生まれる。基礎的なカタログがしっかりしたところに、画期的な研究が育つ可能性があるのです。私の仕事は、「土俵を作ること」ですね。しっかりした土俵ができてこそ、強いお相撲さんが相撲を取り、成果につながる。私自身では何かを見つけられないかもしれないけど、作ったものは必ず役に立つ。ご奉公と言ってもいいかもしれませんが、私自身は、そういう仕事が好きです。

総合カタログがあれば、サイエンスに天才は要らないと私は考えています。病気の原因を発見したり、その病気の予防や治療を目指したとき、科学者のクォリティに成果が左右されるのは好ましくありません。それは、未熟な社会です。だれもが、研究に取り組んだら取り組んだ分、お金をかけたらその分、成果が生まれるものでなければなりません。メタゲノム解析は、成熟したサイエンスの土台を作っていることにもつながっていると思います。

病気治療のパラダイムシフトがおこるかもしれません

ヒトの健康に関与する要因には、その人自身が持つ遺伝子と環境要因の両方があります。それらがどのような関係性を持ち、どの程度の割合で作用し合っているのかは、まだまだ分からないことばかりです。

さまざまな健康障害のうち、100パーセント遺伝に由来するのは、遺伝病と呼ばれる疾病です。反対に、100パーセント外的要因に由来するものとしてはケガが挙げられます。外的因子には、食べ物、飲酒、喫煙、睡眠、運動、ストレスその他、さまざまな要素がありますが、なにを食べたか、どんな所に住んでいるのか、お酒を何杯飲んだかなどをひとつひとつ取り上げて健康への影響を評価するのは非常に困難です。しかし、それらの因子は腸内細菌叢には反映される。ということは、腸内細菌叢をデータベース化することができれば、細菌叢のどの部分が生命システムに作用しているのかを知ることができます。

腸内といっても、ヒトにとっては「外」です。ヒトが持っている遺伝的因子と外的因子の作用がどのような状態か見ることができれば、その要素を取り除くことによって健康障害を防いだり、病気を治したりすることができるようになるかもしれません。

たとえば、糖尿病では、環境要因の方が遺伝要因よりも影響が大きい可能性があります。糖尿病と深く関係している腸内細菌を特定でき、それを増減させる外的因子を突き止めることができれば、治癒の方向に向かうこともあるでしょう。そうなれば、新薬を投入せずに、生活習慣をコントロールすることによってゆっくりとではありますが治癒することができるでしょう。これまでの製薬技術はいったい何だったのか? ということになるかもしれません。病気の治療、薬の開発に関する考え方が変わっていく可能性もあります。

今後は、人の生活におけるどんな時期のどんな要素が、腸内細菌を変化させているのかといったことを解明していきたいと思っています。まだまだ研究することは多く、ひとつが分かったから人の体すべてを理解できるというものではありません。

がんアルツハイマー自閉症うつといったそれぞれの臨床研究に携わる多くの研究者が、腸内細菌のゲノムを利用しつつ成果を挙げていただければと思います。