人類学を研究する中で何か葛藤はありましたか?

大学時代はそれこそモヤモヤしていた時期ですね。人類学という学問は好きなんだけど、具体的に自分はどのような研究をして、自分が興味を持っているいくつかの分野の中の何をやろうか……。大学院に進学しても、どうしたらいいだろうと思っていて、認知と文化への関心を深めるために、認知人類学が盛んだったアメリカ文化人類学を勉強しようと、ニューヨーク州立大学に入学することにしたんです。日本にいた時はモヤモヤしていて自分が納得のいくアウトプットは何だろうと悩んでいたのですが、認知人類学の中心的研究者であるチャールズ・フレイクさんが指導教員で、彼が私のやりたいと思っているところを上手く引き出してくれました。人類学って守備範囲が広くて、人によってそれぞれの人類学があるような研究分野だから、自分なりのものを見出すためのモヤモヤ期間は長かったです。

私の場合、幸い親がある程度放任主義で、ちょうど日本もバブル崩壊前で、ある程度経済的に豊かでした。そのような時代の中で、ある意味では私も向こう見ずなところがあったように思います。研究者の場合、定職につけるとしても、30歳代以降ですよね。それまでモヤモヤして、手探りで思索を深めていくことが許容されていたようにも思います。人類学というのは、調査手法の面、理論的関心の多様性から、長期熟成が必要な研究領域なので、今でも人類学を志望する学生さんたちには、そうしたモヤモヤを引き受ける覚悟というか、許容というか、そうした気持ちがあるように感じています。それとは対照的に、皆さんの世代は向こう見ずなことがしづらいというのもあるかもしれません。今の大学院生やポスドクの人たちをみていると、自分が何をしたいかというより、むしろ今何を調査すると論文としてアクセプトされやすいかというところに自分を合わせるようなところもあると思うんです。先行きが下り坂になっているイメージを持っているから、それがまたモヤモヤ感を強めてしまうところなのかなと思いますね。

それは、社会全体が「余白」や「遊び」を失ってきているということで、もう少し、考え直してもいいように感じます。産業社会というのは、労働=>生産=>消費の循環、ゲームと捉えることができます。労働をして生産活動に携わり、賃金を獲得して、生産した物を消費し、また労働する。欧米諸国を含め、私たちの社会が直面しているのは、この産業社会のゲームを順繰りに回すというのが難しくなってきていることじゃないかと思うんです。産業社会は不思議なもので同じ事を繰り返していると価値は低下してしまいます。大学の研究者の相対的地位も下がってきていますから、もし自分の子供が人類学をやりたいなんて言ったとしたら、「ちょっとよく考えよう」と言いますね。(笑)

だからこそ、「技術革新」「イノベーション」「創発」といったキーワードが強調されることになります。ただ、強調されるということは、それが難しくなっているということでもありますよね。いわゆる先進国では、新たに付加価値を生み出す領域が少なくなってしまっている。90年代半ば以降は、ITが牽引役となり、金融サービスを成長させることで何とか付加価値を拡大させてきた。ただ、それも息切れして、バイオはやはり投資をうまく回収できるか、なかなか難しい。でも、こうした状況は、豊かになった社会だからこその悩みですよね。豊かさが当たり前になってしまって、効率、費用対効果を求めすぎているように思うんです。車のハンドルでも「遊び」「ムダ」が必要ですよね。ところが、私たちは、一方で遊びをなくした効率性を求めて、「遊び」や「気晴らし」「観光」も産業社会ゲームの歯車にしてしまっている。効率的に遊ばなきゃ、無駄なく友だちとコミュニケーションしなきゃ、って思ってしまっていないでしょうか。